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キリスト教における、死の概念とはなんなのでしょうか。 調べていくと ・人間の...

tok********さん

2019/6/1107:21:16

キリスト教における、死の概念とはなんなのでしょうか。
調べていくと
・人間の原罪がもたらした罪の刑罰
・地上での罪の許し、永遠の安息
・魂が天にかえること、永遠のいのちにあずかると

いうこと
などがありましたが、どれが本当(キリスト教で最も一般的な考え方)であるのかがわかりなかったので教えて頂きたいです。
また、そのような記述がある聖書箇所があれば教えていただきたいです。

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e_k********さん

2019/6/1114:09:18

一般的かどうかは知らんが、東方正教会的には

「死とは人間にとって不自然な状態である」もともと創造された世界に死はなかった。

「死は肉体と霊(たましい)の別れた状態」天使らと異なり霊だけでなく肉体を伴って創造された。

「罪の結果が死」アダムの陥罪がこの世界に死を招き入れた、等々であると教わりましたよ。

全部創世記の最初らへんの話ですね。ご参考までに。

ちなみに永遠の生命とはこの世の終わりに死んだ人全員が復活して神の前に立ち審判を受けるんだけど、その復活の時に新しくされた新生命(?)を得て永遠に神と共に福楽に預かることが最終的な目的かなぁ。反対に神を拒絶した人は神を目の前にしながら永遠に神を拒絶し続けるという地獄の苦しみを舐める事になるらしい。

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dol********さん

2019/6/1423:25:48

結構、聖書の記事は矛盾が多いです。


1.
聖書の一巻であるコヘレトでは、死は無のようです。

コヘレト 死後

コヘレト9:5-6「生きている者は、少なくとも知っている、自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何一つ知らない。 彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれ一つにも、もう何の関わりもない」。


2.パウロは原罪を犯すまでは永遠に生きらことができたと述べています。

ローマ書簡5:12[編集]このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである
---


3.しかし、創世記にはそのような考えは無く、

人が永遠の命を望むことは禁止されています。

------------------
アダムは罪を犯す前は完全な体で、「死ぬ」ことは想定されていなかった。



創世記はその様に読むことが出来ません。(命の樹の実があるのはアダムが初めから死すべきものだということです。)

イブは子供を産むように作られていますから、死は初めから定められたものです・

神は命の樹を食べて、人が「永遠の命」を得ることを恐れエデンから追い出したのですから、人が「永遠の命」を望むエゴイズムは初めから否定されています。

神は自我を獲得した人が「命の樹の実」て永遠の命を得ることを恐れてエデンから人を追放した。


創世記では人は、死すべきものとして土から生まれ土にかえる。


創世記では、「永遠の命」に固執してはならないと主張しているように見える。

sai********さん

2019/6/1305:17:23

真珠湾攻撃はニイタカヤマノボレ、そうすれば奇襲攻撃に成功する、聖書の五書の救いの根本のトーラのトラトラトラ、虎を捕らえて寅のマントラ(男の真運の旅)の主と人の二人三脚の阿運アメンに目覚めて宇宙の故郷に凱旋誕生を得ることができる、これがイエスの遺言です。

「ヨハネは母マリヤと母子となれ」こう言ってイエスはすべては終わったと言った。ここに救いの秘密のすべてがあるということです。この母子を知ればを人生は十字架を運ぶ先に幸せがある、世間の嵐を主のプレゼントと理解すれば風見鶏となることができる、鶏冠を得る=十栄、自分の荷物である十字架を喜んで運ぶ者に開眼する。

これが二回目のアナニヤの手かざしで、岐阜日玉の国の高山に下された崇教真光(1999年主座建立)の手かざしは、人間は何〇回もあの世とこの世を輪廻しているという命の実相を証しています。聖書は二回の手かざしで完成する。耶→蘇教=パウロ(羽洞、ヒヨコ、日横)→ヨハネ(預羽,ニワトリ、日立、朝日を迎えて誕生する)、

この変わり目が日産のゴーンの除夜の鐘であり、カルロス=軽くてロスのみの殻田作り(煩悩の罠)が産業革命で車社会の開花であることを知るべし、

『目的は真珠の魂の完成であることに目覚めよ』です

オアフ島は猪の頭で、攻撃目標は四角いフォード島でした。フォード=自動車王で、聖書と歴史と地理は連携がとられた教えになっているのです。
去年の後半から岐阜愛知の二県にトンコレラないこと、(豚に真珠)が流行して止みそうもないこと、4月16日にはノートルダム大聖堂に火災が起き、マリヤ(真理矢≂風見鶏)に目覚める時なり、96m(8月6日、9日)=開智)神に向く苦労、腹の蝮を治めて辺(ノアの箱舟)の字に生きる秋なり。

中川健一氏及び全キリスト教会の聖書の致命的な読解力不足を告発する。いかがでしょうか?
中川氏は聖書を半分以下しか読めていないので、彼の出す結論は×です。聖書の大事な半分とは、人間は輪廻を繰り返すものである、で、これはイエスの遺言の「ヨハネとマリヤ母子となれ」の予言です。

人生は一度しかない、と教会もエホバも中川氏も言っており、聖書にも人は何回も輪廻するということは書いておりません。しかし、真珠湾攻撃の予言が黙示録の12-7にあり、高い山に新エルサレムが下ろされると21-10に予言されています。

真珠湾攻撃はニイタカヤマノボレ=天国に入る人間の条件は勾玉(曲魂)を真珠に育てることである、そのためには新高山に下ろされる命の真理実相を知る必要がある

新聖都高山には二回目のアナニヤの目覚ましの手かざしの業が下ろされて、人間はあの世とこの世を何〇回も輪廻しながら天国への階段を上っているものであることが証されるのです。

これはアナニヤの手かざしを受けて開眼したパウロ(羽洞=ヒヨコ、日横)の暗い教えがヨハネ(預羽=ニワトリ=日月の二波を結ぶ真理の矢)、イエスの譬えを翻訳する真理の御霊(あいーおーんの48音の光る雲=真光)が全てを変容して輝かす人類史の秋がくる。
この真光の業が神理の矢で、人(真我)は死なない、神に育つまで命は輪廻をして天命宿命運命の因果の上昇旅をしているのである。

人類史はHIS STORYで、4月7日のイエスの十字架刑(天に迎えられた)と連携した教えになっています。
秋の収穫はHER BEST TIMEで母マリヤの天国への出産です。

聖書は耶→蘇教で二度読まれると設定されている、ヒヨコのパウロで開花し、ニワトリのヨハネで結実、子実魂を産む、

真珠湾攻撃にはニイタカヤマに降ろされる二回目のアナニヤ(穴に矢)の手かざしが必須である。人の輪廻の実相が聖書の救いの教えを完成する。
新約聖書の26書の内に12書はパウロ(ヒヨコ)の書です。二回目の高山の手かざしを受けてニワトリ(鶏冠=十栄)となった時に朝の誕生のハーベストタイムを責任を持って語ることが」できるのです。

中川健一=1947年1月11日生、日意を繰る品の始めの統一、二本の統一(二波取り)には一突き未熟、川(王、丰)渡りの半ばである。

漢字,地理、歴史,高麗犬、一切神の声、最後の学問「秀思學」のすすめ

真珠湾攻撃はニイタカヤマノボレ、そうすれば奇襲攻撃に成功する、聖書の五書の救いの根本のトーラのトラトラトラ、虎を捕...

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iko********さん

2019/6/1122:57:26

キリスト信仰者(プロテスタントのルター派)です。

聖書の概要

神は天地を創造され、私たち人間を非常に愛してくださいます。神は、私たち一人一人と関係を持ちたがっていらっしゃいます。

人間は皆、神の意志に対して大きな罪を犯しました。
罪とは、考えや言葉や行いが良くない方へと向かったり歪んでしまったり、神に対して反抗的になったりすることです。心で神を拒むことです。
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という神の律法を守る人間は一人しかいません。イエス・キリストのことです。

最初の人間が神に不従順だったことがきっかけで罪が世界に入り込み、人間は死する者になってしまいました。すべての人が罪を犯したからです。

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(聖書のローマの信徒への手紙 5章12節)
聖書は「罪の支払う報酬は死である」と教えます。(ローマ人への手紙6章23節 https://www.wordproject.org/bibles/jp/45/6.htm#18

神はわたしたちを愛し、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子イエス・キリストをお遣わしになりました。
神の子イエスは、十字架の上で、私たちの罪を贖われました。
イエス・キリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥められたのです。このようにしてキリストは、罪と死の力に打ち勝たれたのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。
神はキリストを死から復活させ、天に上げることによって、キリストの贖罪の御業を承認されました。

神は約束されます「イエス・キリストを信じて洗礼を受ける者は救われます」。
救われるというのは、罪の赦し、地上の生涯の後、神のもとに永遠の喜びということです。

その「罪の赦しによる救い」はキリスト教の中心です。
その福音はあらゆる民族の人々に伝えなければなりません。

キリスト信仰者の人間同士への態度は、
「主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」

キリスト信仰者は、キリストの再臨の日を待ち望んでいます。

世の終わりにキリストは栄光の中に出現し、全ての死人を復活させるのです。最後の日に、全ての人はキリストの審判の座の前に集められ、裁かれます。

「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」
(聖書のローマ人への手紙 8章1節)

「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる。」
(聖書のローマ人への手紙 10章13節)

古い天地は過ぎ去り、神は義の住むところに新しい天と新しい地とを創造されます。

「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
(聖書のヨハネの黙示録21章3節)

bus********さん

2019/6/1120:18:08

>キリスト教における、死の概念とはなんなのでしょうか。

聖書の提示する「死」は、「機能しない」ということです。

始祖人アダムに対し、神は

「 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(【新共同訳】創世記2:17)」

と宣告されました。原語では、食べると「死にながら死ぬ」とか「死の中で死ぬ」という意味ということです。

これは、霊において「機能しない」中で、肉体において「機能しない」ことになる、と理解できます。

ですので、アダムの子孫として、生まれながらの人(ノンクリスチャン)は、霊が機能していないので、神に関して無感応な状態です。




>・人間の原罪がもたらした罪の刑罰

これは「死にながら死ぬ」もしくは「死の中で死ぬ」、最終的には「地獄」ということです。


>・地上での罪の許し、永遠の安息
>・魂が天にかえること、永遠のいのちにあずかると

詳細については「?」な部分もありますが、これらはクリスチャン限定となることでしょう。

bre********さん

2019/6/1119:36:42

そのような箇所はいくらでもあるので、聖書全部を読んだ方がいいです。そうすれば、それに関係するいろいろな事も分かります。

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