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卑弥呼の墓ではないか?

邪馬台国の阿保さん

2019/6/1921:05:23

卑弥呼の墓ではないか?

と謂われる糸島市の平原1号墳について、初歩的な考古学と土木建築についての質問です。
平原1号墳は発見当時、盛り土は無く、東西14m、南北10.5mの大きさで墳丘裾が認められることから墳丘墓とされています。
この「墳丘裾」とは何でしょうか?

私は素人なので、単純に下画像のような、墳丘では無い宮墓をイメージするのですが、西日本では弥生時代晩期~古墳時代初期に社(やしろ)を墓にしたと思われる例はないですよね?
殯(もがり)がそのまま、正墓となったのでは?との考えです。
そこで、「墳丘裾」が何かを知りたいのです。♡

柱の高さは、柱の穴径や深さ、床圧から推測できることはNHKのテレビ放送で知っています。
このような、回答を頂けたら幸いです。♡

補足追加の質問をさせて頂きます。
多分、残った盛り土部の横幅が広いので「墳丘裾」と見なしたのだと思います。

墳丘があった場合、殯の後に墳丘がどのように造られたかを知りたいです。
人が、しゃがんで入れる空間を残して土盛りされたのでしょうか?
それとも、自に土盛りされたのでしょうか?
実は鏡の割れ方の謎から、邪馬台国の謎に近づきたいので、宜しく、お願い致します。

墳丘裾,盛り土,弥生時代晩期,墳丘墓,土木建築,殉死者,倭人伝

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ベストアンサーに選ばれた回答

ail********さん

2019/6/1921:28:24

単純に裾で土盛り部分の裾部分の意味で使われています。
盛土ないが裾部分と思える部分が確認出来るので、盛土あったと判断した意味でしょう。
建物は知識ありません。
魏の墓式から、殯作って葬式して、後に土盛ったのでは?
祇園山古墳が3世紀なら倭人伝の卑弥呼の墓に近いです。
殉死者66人?確認されてます。

  • 質問者

    邪馬台国の阿保さん

    2019/6/1923:56:21

    回答有難うございます。

    と謂うことは、低い土塁であっても、「墳丘裾」と謂うのですか?
    「土塁」と「墳丘裾」の区別は考古学では判別できると思うのですが・・・

    祇園山古墳については、この質問に関係がありませんが、発掘調査報告書を見た限りでは、殉葬の形跡は無いと思われます。なのにネットではこれが広まって受け入れられているようです?
    でも、この墳丘墓の下にも、弥生時代後期の宮墓があったのではないか?とは思っています。

    祇園山古墳にせよ、平原1号墳にせよ、「魏志」が云う処の卑弥呼の墓ではありません。
    それは「大作冢 徑百餘歩 殉葬者 奴婢 百餘人」とあり、殉葬の問題は別にして、「徑百餘歩」はアバウトな目測の数値化であって、単なる「大きい」を形容する言葉の使い方ではないからです。
    漢字「冢」には「大きい墓」の意味がありますから「大きな・大きな盛り墓・径が大きな墓」の表現になって紙が少ない時代の簡略化になっていません。⇒

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質問した人からのコメント

2019/6/23 02:23:19

私の妄想の原田大六先生の指示に従って、また次のステップに進みたいと思います。
ご協力ありがとうございました。♡

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