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自分は沼田市に住んで居るのですが、 なぜ沼田城は破壊されてしまったのですか??

tod********さん

2019/6/2911:54:51

自分は沼田市に住んで居るのですが、
なぜ沼田城は破壊されてしまったのですか??

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ベストアンサーに選ばれた回答

2019/6/2921:01:31

天和元年(1681)、上野国沼田藩主・真田信利が改易に処せられました。

真田信利は水害のために流出した江戸の両国橋再建のため、幕府から用材の切り出しを命じられましたが、切り出し作業に手間取り、工事を遅延させたことを口実に改易に処せられました。信利は失政を繰り返し統治能力を疑われていたので、幕府は口実をつけここぞとばかり改易に処したのです。信利は出羽国山形へ配流となり、嫡男の信就も播磨国赤穂藩にお預けとなりました。これに伴い上野国高崎藩主・安藤対馬守重博が上使、堀周防守親貞と内藤右近大夫政親が沼田城の受け取り、細川豊前守興隆と新庄主殿直詮が沼田城在番を、それぞれ命じられ、沼田城受け取りのために現地入りした各大名の家臣団は総勢6500人、携行した武具は鉄砲360挺・弓140張・長槍200筋というものものしさでした。真田家の家臣の中には「城を枕として死すべき」「沼田は我が真田家が槍先にて取った城であって、公儀より拝領したものではない」といった強硬論もあったので、城の受け取りは準戦時体制で臨まなければなりませんでした。そして予定通りに城の収公が完了すれば、旧藩領は幕府領に組み入れられることになり、領地引き継ぎに伴う実務処理のため、城受け取りの際には、必ず幕府から勘定や代官が出張しました。上使と受け取りの一行は天和元年十二月、沼田入りし、十九日の明け渡しに供えて城下町の要所に陣を構えました。十二月十九日の早朝、内藤右近大夫が大手門を開け、城代家老の出迎えを受け入城。そして書類と城の実態を照合しながら、改易前の状態が維持されているかどうかを点検し、こうして城の収公は無事に終了しました。収公した沼田城の処理について、三十日、幕府から破却命令が届き、幕府からの勘定や代官などの派遣一行は沼田で年を越し、翌年正月三日より破却工事を開始し、十日間で解体作業を終了し、当時、関東地方では唯一の五層の天守閣もこの時に解体されました。すべての解体工事と手続きが終了したあと、代官は現地に残り、勘定は江戸に戻りました。

質問した人からのコメント

2019/6/30 10:12:28

丁寧な回答、ありがとうございました☆

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

aja********さん

2019/6/2912:21:51

真田信利の改易で(さして重要でも大規模でもない)天領となったから、では?

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