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長篠の戦い

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ID非公開さん

2019/12/3020:25:35

長篠の戦い

もし長篠の戦いで主だった将(山県、馬場、土屋、真田ら)が討ち死にせずに生存していたら武田家滅亡は防げないにしてもいくらか延命は出来たと思われるか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

川崎さん

2019/12/3115:25:53

歴史において「もし、たら、れば」は難しいですが、想像してみました。

①山県昌景が生きていたら
山県昌景は、徳川家康に恐れられた猛将でありますが、もう一つの面として「東海地方の軍事責任者」という面があります。
駿河遠江三河の国衆を指揮下にして、各地への侵攻や調略を担当しています。

そして、山県昌景が戦死したあとのポストには、息子の山県昌満ではなく、穴山梅雪が就いています。
長篠合戦後、敗戦の影響もあり、東海地方の武田方は徳川に押され始めますが、山県昌景と穴山梅雪の差が出たかもしれませんね。

さらに武田滅亡直前、穴山は武田を裏切ったため、東海地方の武田の防衛ラインは崩壊します。
さらに、穴山の裏切りの報告が届いた武田軍は、それまで一万人規模の軍事行動をしていましたが、一気に瓦解し100人単位まで激減します。

もし、山県昌景が存命であったら、この地方のまとまった裏切りは起こらず、もう少し粘れたかと思います。

②馬場信春が生きていたら。
馬場信春は、主な戦いにほとんど参加し、越中や飛騨方面の軍事も担当していました。
山県とは違い、行政官の側面はなく、軍事専門と言えます。
しかし、馬場信春の戦死後、跡を継いだ馬場民部は、ほとんど活動した痕跡がありません。
病弱であったか、勝頼から権力の大半を奪われたと推測されます。
武田滅亡時も、深志城に立てこもり奮戦しますが、ほどなく城を明け渡しています。

しかし、馬場信春は戦死した時点ですでに高齢。
生き延びたとしても、それほどの活躍は期待できなかったと思います。

③土屋昌次が生きていれば
土屋昌次は奥近習六人衆であり、信玄が幹部候補生として育てた一人です。
また、弟の土屋昌恒は長篠合戦の頃には、勝頼の側近として活躍しています。

この事から、土屋昌次が生きていれば、信玄時代の旧臣と勝頼時代の新しい家臣らとの橋渡しができたかもしれません。

④真田信綱・昌輝が生きていれば
真田信綱は、父親の真田幸隆(幸綱) の引退後、主に関東で活躍しています。
調略などはあまり聞かれず、前線指揮官として優秀であったとの印象です。

その信綱の戦死後、信綱・昌輝の遺領を相続したのは武藤喜兵衛こと真田昌幸です。
家督相続後の昌幸は、まさに縦横無尽の活躍を見せ、劣性の武田家において、むしろ勢力が拡大する原動力となっています。

このように昌幸は、戦国屈指の武将です。
しかし、信綱・昌輝が揃って昌幸並みに有能である可能性はなきにしもあらずですが、可能性は低いでしょう。全員優秀な兄弟なんて、島津四兄弟ぐらいです。
もしかしたら、信綱が戦死したことにより、武田の滅亡が延びたのかもしれません。

⑤その他の武将
戦死した武将の中で、特に惜しまれるのは、内藤昌秀、原昌胤、横田康景、高坂昌澄などです。
北関東の責任者といえる内藤昌秀のあとは、内藤昌月が継ぎますが、可もなく不可もなく活躍しています。
原昌胤は軍の布陣の責任者である陣場奉行ですが、息子の昌栄などが引き継いでいます。
原昌胤の息子が、後に大坂の陣で真田信繁(幸村)の首を確認することとなります。
横田康景は、武田の鉄砲衆でしたが、息子の横田尹松が高天神城などで活躍し、武田滅亡後も徳川家臣として活躍します。
高坂昌澄は、高坂昌信(春日虎綱)の変わりに出陣したようですが討ち死にし、弟の信達が高坂家を継ぎます。
上杉との同盟により北条との最前線に異動して活躍します。


このように、一概には言えませんが、幹部クラスの戦死がなければ、武田の滅亡はわずかばかりは伸びたかもしれません。
それでも、後継者が戦死者の変わりに活躍し、むしろ滅亡を遅くしたのかもしれません。
ですが、山県昌景の後任に、武田の滅亡を決定付ける裏切りをした穴山梅雪が就いたことは、滅亡を早めたと思います。

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質問した人からのコメント

2020/1/4 12:01:48

詳しい回答ありがとうございました。
BAとさせて頂きます。

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nad********さん

2019/12/3100:16:19

北条は同盟しているメリット無いし、何度も武田は北条を裏切ってるから信用されてないし、北の上杉は謙信死んだ後は東から伊達に、南から北条、西から織田に攻められてるので頼れない。
延命も難しいでしょう。
裏切られて終わりでは?

asd********さん

2019/12/3022:13:14

個人的には少なくとも長篠後7年で武田家滅亡はなかったと思いますね。

そもそも武田家滅亡の要因は木曽義昌や穴山信君、小山田らの武田家の親戚の裏切りが大きな要因です。
その勝頼から見て年上の親戚に物申せる家来衆が勝頼の側にはいなかったことも武田が崩壊した一因です (年齢と地位的なものから物申せる家来衆は精々高坂弾正くらいでしょうが、長篠の後御館の乱くらいで病死、山県や馬場の息子ら、真田昌幸は年齢的なもので意見は言えても親戚衆から強く言われたら勝頼を弁護することはできないと思います)。

よって物申せそうな特に山県や馬場、甲斐の副将と言われた内藤らが生きていれば、親類衆を抑えつつ後進の育成もできたでしょうから、1582年の武田家滅亡はなかったと思います。

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jun********さん

2019/12/3021:11:57

関係なさそうです。
討ち死にしなければ、個別に織田や徳川から調略され、
寝返っていたような気がしますね。

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