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仏教学者の中村元氏の下記の解釈について、知っておられる方は教えて下さい。

kar********さん

2020/1/1215:15:44

仏教学者の中村元氏の下記の解釈について、知っておられる方は教えて下さい。

(引用開始)

https://blog.goo.ne.jp/wyatt9999/e/61e7ac62be7391d94a2d12f61edadfbf

初期仏教では、決してアートマンを認めていなかったわけではありません。倫理的な行為の主体として、自己(アートマン)を積極的に認めていたのです。

自己(アートマン)が善悪の行為の主体であるからこそ、修行者は真の自己を求めて修行に励み努めなければならないのです。 ・・・要するに、真実の自己を求めよというのが初期仏教の修行者の目標でした。

(中略)

このように理想的な倫理的な行為を実践する主体としてのアートマンを認め、本来の自己(アートマン)を追及していくことによって、現実の人生の苦を乗り越えていこうと、最初期の仏教では独自のアートマン論を展開していました。

しかし、決してアートマンを形而上学的実体と見なすこともせず、また「アートマンが存在しない」と否定もせず、アートマンの形而上学的な性質については完全に沈黙を守っていたのでした。

(引用終わり)

そこでの、倫理的行為の主体たる自己、というのは、五蘊と別なる主体、という意味で中村氏は言っているのでしょうか。

それとも、それが五蘊と別なる主体かどうか、ということも釈迦は明言していない、だから、それも分からない、と中村氏は解釈しているのでしょうか。

補足sagさんから回答がありましたが、返信が書き込めません。

返信拒否の設定にされているのでしょうか。

不適切な対応に思えます。反論されたくない、ということなのでしょうか。

仕方ないので、下記に新たに質問を立てました。もちろん他の人の回答も期待しています。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q112187528...

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nao********さん

2020/1/1222:41:16

こんばんは!
なっちゃんです!

> 初期仏教では、決してアートマンを認めていなかったわけではありません。倫理的な行為の主体として、自己(アートマン)を積極的に認めていたのです。

中村先生は、個の原理としてのアートマンについては無言でしたが、倫理的行為の主体としてのアートマンについては肯定しています。中村先生の『ブッダの人と思想』でも、次のように書かれています。


『ブッダの人と思想』より引用~

ブッダは、人間存在は非我(無我)であるからといって、自己の存在を否定したわけではありません。むしろ倫理的行為の主体として、自己の存在を積極的に肯定していました。

~引用終わり


> そこでの、倫理的行為の主体たる自己、というのは、五蘊と別なる主体、という意味で中村氏は言っているのでしょうか。


『ブッダの人と思想』より引用~

この五つの要素(色受想行識)が仮にあつまって自己存在を形成するわけで、自己とはあくまで仮構されたものであると見ます。仮構されたものには実体はありません。また、色受想行識の各要素にも実体があるとはいえません。つまり、すべて「非我」であります。

・・・五種の構成要素(五蘊)を[アートマンとは異なった]他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。毛の尖端を矢で射るように。『テーラガーター』1160


中略


非我あるいは無我が、いまひとつはっきりしないのは、あれはアートマンではない、これもアートマンではないと否定的に説かれていて、これがアートマンであると肯定的、断定的に説きあかされないところに、わかりにくい面がありましょう。しかし、ここで、否定的にしか説き得ないことなのであるということを理解しなければなりません。もし、これがアートマン(自己)であると断定したなら、ブッダの教説と違ってしまうでしょう。ブッダは、これといって具体的に、また対象的に客体化して明示するどんなものもアートマンではないといっています。ブッダはアートマンは存在しないとはいっていません。人間の五種の構成要素(五蘊)をとりあげ、「アートマンはこれでもない、あれでもない」といっているだけです。

~引用終わり


アートマンとは、自己の主体です。主体なので、観察の対象にはなりません。客体にはならないのです。そのことを五蘊を例にして説いています。人間の構成要素を、肉体・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用とに分け、そのひとつひとつにおいて、「これはアートマンではない」と説き、また全体においても、「これはアートマンではない」と説きました。なぜなら、五蘊を観ているのがアートマンであり、観られている側はアートマンではないからです。

このことから、仏教ではアナートマンを説きます。我の否定です。これは、我の存在が無い、という主張ではありません。物質・感じること・考えること・決めること・認識することとは、それを対象と観た結果であり、客観的に観た結果なので、それはアートマンではないと言っています。つまり、有ることに執着せず、無いことに執着しない立場です。

ありがとうございました!

  • 質問者

    kar********さん

    2020/1/1302:02:32

    回答ありがとうございます。

    >この五つの要素(色受想行識)が仮にあつまって自己存在を形成するわけで、自己とはあくまで仮構されたものであると見ます。仮構されたものには実体はありません。また、色受想行識の各要素にも実体があるとはいえません。つまり、すべて「非我」であります。


    自己とは、五蘊と別なる主体ではなく、いわゆる五蘊の仮和合ということですよね。

    であるなら、

    >アートマンの形而上学的な性質については完全に沈黙を守っていたのでした。

    ということと整合しないと思うのです。「仮構されたものには実体はありません。」と言ってるわけですから。

    釈迦の言ってる自己とは、五蘊の仮和合であり、そこに実体は無い、という意味だと中村氏は解釈している、という意味でしょうかね。



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sag********さん

2020/1/1317:03:11

こんがらがってるようなので、論理的側面を整理して、次に実態面を引用してあげましょう。

釈迦が答えた、アートマンをいかに考えるかが問題となる。
A、永遠な自己な側面 → 釈迦は答えず
B、倫理的な自己の側面 (A以外の側面)→ 釈迦は肯定
従って、少なくともBの側面においてのアートマンは認めている。

ていうのが、中村説の論理。

次に、実体面。

『大王よ、修行完成者はすがたの数量から解放せられ、あたかも大海のごとく深遠であり、無量であり、量り難いからであります。修行完成者が死後に存在するということは適合せず、修行完成者が死後に存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在しかつ存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在するのでもなく、存在しないのでもないということも、適合しないのであります。』(『サンユッタ・ニカーヤ』)

『この対話からも知られるように、修行を完成した人(如来)は、絶対の境地に到達しているのであるが、それは絶対の境地であるが故に、有・無などの対立を超えたものである。深遠無量にしてはかりがたいものである。だからかれが死後に存在するとか、存在しないとかいう概念的把握は成立しないのである。われわれの認識能力はきわめて限られたものである。われわれが日常生活において常識的に把捉し理解しているのは、真の実在の一側面にすぎない。あるいは真実の実相とはよほど異なったものであるかも知れない。われわれにはそれがわからない。絶対の実在は、われわれの認識能力を超えたものである。だから修行完成者の到達する死後の世界を、無量不可測なる絶対者として仰ぐことは永遠の真実であるといわねばならぬ。』(仏教思想8解脱 解脱の思想(中村元)、中村元『原始仏教の思想I』960P)


結局、そういうことなんですよね。
先生はヴェーダーンタ学派を研究していましたから、明らかにその視点を
持たれてる。

あなたは多分、3つの側面から理解できない。

①インド哲学、思想史において知識の欠如
②国語力の圧倒的欠如(読み違えが甚だしい)
③洗脳されている(求める答えがほしい)

ちなみに、テーラワーダ内部でもアートマンを人格化しないという前提で、中村元に同調する人は多いのでしたw

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man********さん

2020/1/1300:31:25

我具足は七具足の一つで、八正道の前兆とされています。
つまり、八正道以前の話です。
我具足は自己開発を具備していることで、邦訳ではパユットー長老の本にも書いてあります。

開発の方向は七仏通誡偈にありますが、倫理的という意味ではありません。
善悪は道徳的な問題です。

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ois********さん

2020/1/1220:35:02

ブッダはアートマン説には立っていないやろ。

パーリ経の経文を深読みしても、そんなことは言っていないと思う。

ブッダは、立ち位置・姿勢・態度、そして言葉で教え(ブッダ御自身が説くべきだと結論付けた教え)を説かれましたが、そこにはアートマン説は無いし、アートマン説を説くヴェーダの宗教への批判的立場があります。

それは当然のことです。

なぜなら、ブッダは”真理”など求めていないから。
これが分からないと、ブッダの教えは理解できないと思う。。。

sam********さん

2020/1/1220:12:15

>>>しかし、決してアートマンを形而上学的実体と見なすこともせず、また「アートマンが存在しない」と否定もせず、アートマンの形而上学的な性質については完全に沈黙を守っていたのでした。>>>

上記は、正しい見解だと思う。これが正に仏陀の中道の教えです。
テーラワーダ仏教は、輪廻転生を信じています。来日しているスリランカ学僧スマナサーラからも輪廻転生があるとの前提で説法しています。
しかし、正しい自己と言うのは、識で「気づき」のことです。私どもは自分の感情、思考、感覚、身体に「気づく」ことができます。

でもその気づきは、一切人格的な性質、性格などを持っていない生命の単なる機能です。
植物でさえ気づきの働きを持っています。太陽の方向に花びらを開いたり、暗くなると花びらを閉じたり、虫を見つけると花弁を閉じたりたりする食虫植物もいます。

気づきと言う自己は、一切感情、思考などを作る働きではなく、単に思考や感情が生まれたことに単に「気づく」働きだけです。

それを学ぶ教えが原始経典の「中部経典第10番 念処経」にあります。「サティ・パッサーナ」(バーリ語)で、漢訳では四念処経とか四念住と呼ばれています。明治、大正、昭和時代の日本の初期仏教学者などは皆さん昔から知っています。四念処の資料も昔から発表されてきています。

このサティパッサーナを英語で世界で初めてマインドフルネスと英訳したのはイギリスの仏教学者リス・ディプスです。今から約150年前に訳しました。だから昔からサティパッサーナやマインドフルネスはインド周辺国、欧州、北米国々などで広く知られています。

このサティパッサーナ(四念処)を実践して、自己というのは気づきだったと「知る」ことが出来るようになります。

このサティパッサーナ(四念処観察の実践)は是非コピーしてお読みください。「知る」が50回
以上出てきます。これが「正知」という知恵です。この念処経は中学生、高校生でも読める16ページ(日本語版)ほどの内容です。(春秋社など発行)

このサティパッサーナ「四念処の観察」が「無我」を知る教えなのです。
ここは大事なポイントだから覚えておいてください。

だから、気づきの主体をアートマンと呼べば呼べます。自己とも呼べます。
でも呼称は全て仏陀の言う「名称と形態」、つまりラベリングに過ぎません。
だから、中村先生訳のダンマパダやスッタニパータにも、「名称と形態を捨てなさい」とアチコチに出てきます。

言葉(名称と形態)は道具に過ぎません。
山、川、海、家、人間、猿、ネコ、車、先生、聖者、大臣、生徒、金持ち、貧乏人、長老、善、悪、男、女、父、母、アートマン、など、など思考が生んだラベリングに過ぎません。
つまり世俗諦(パンニャティ)で真実諦ではありません。
私たちは言葉(名称と形態)に縛られて、苦しんでいるからです。言葉は思考の産物に過ぎすそれも割愛なのです。

私は、スリランカ学僧のスマナサーラに10年以上学んできましたが、肝心かなめの中道、サティパッサーナなどの教えが欠落していました。また輪廻転生などは、仏陀が無記であったにも拘わらす、徳を積めば良いところに生まれ変わるなど、とんでもないことを教えていたことを知り、私はスマナサーラを15年前に離れました。
どうか皆さん遠回りをしないように学んでください。
僧侶が例え仏教専門用語を知っているからといって、必ずしも正しい仏陀の教えを体得しているとは思わないことです。

とても皮肉にもインドには仏陀の教えをパクった元ヒンズー教徒など少数ですが残っていました。その人々は一切宗教色はなく、仏陀の教えをズバリ体得した人がいて、前記した欧米人たちは英語で、自分の真理、真実を体得した方々が皮肉にもおられます。
そういうインド、欧米人の方々は教団など一切作らず、ただ真実を話したり、本を書いています。それらも参考に学ばれると、仏陀の教えの理解が進むと思います。
今のテーラワーダ仏教は注意して学ばないと、迷路に陥りますから、気を付けてください。

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zys********さん

2020/1/1219:34:40

元々アートマンには(生命、自己、身体、自我)などの
多義的な意味があります。
中村氏の言う「決してアートマンを認めていなかったわけでは
ありません」の「アートマン」がどれを指しているのかがはっきりしていないことが疑問を呼ぶのですね。
これを「自我の本質、真我」ととることは、仏教教義から言うならあり
得ないことになります。

五蘊無我であるということは、五蘊で成り立つ「私」も無我であるのは
当然のことです。
何より「縁起」こそが仏教の根幹であり、縁起には「核」はないと
いうことはブッダも『蘆束経』で言っているとおりです。
真我であると言うことは、支え合わなくとも単独で立っている
という事です。
蘆束で言っているのは(そんなことはあり得ない)ということです。
アートマンを認めることは「核がある」ことです。
その核とはブラフマンに出来たニキビのようなものです。
仏教には核はなく、縁起による「現象」のみがあるだけです。

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