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天照大神は、古事記・日本書紀成立以前から存在していた神でしょうか?

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ID非公開さん

2020/1/1500:55:02

天照大神は、古事記・日本書紀成立以前から存在していた神でしょうか?

伊勢神宮(皇大神宮)は、「元伊勢」が広域に渡り70・80箇所も存在することから、それほど古くからあるとは思えません
皇紀2600年と言うならば、元伊勢は3,000年位前から存在してないと辻褄が合わない

よって論外です

確認されている神社とその痕跡は全て6世紀以降のものです

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z_x********さん

2020/1/1517:02:53

元伊勢は崇神天皇以降ですから古くても2000年も前ではないですよね。日本の神社は仏教寺院に対抗するために建てられましたから、6世紀以前の神社に相当するのは磐座とか山とかです。最初の元伊勢の檜原神社も本殿が無くご神体は山じゃありませんでしたっけ?

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    質問者

    ID非公開さん

    2020/1/1518:57:36

    中国のハイロウでしょ(写真上)

    日原神社(写真中)

    白峯神社(崇徳天皇)(写真下)

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aka********さん

2020/1/1816:22:08

天照は元来人で、対馬の天(あま)国の王で、後に対馬の天照神社の祭神になったと考えられます。


◎縄文時代
縄文時代に森林で縄文人が縄文文化を営んでました。長江下流から西日本にかけて照葉樹林が茂っていました。長江下流では倭族が刺青や温帯ジャポニカ米の水田稲作や貫頭衣や高床住居や鳥居やしめ縄などの照葉樹林文化と長江文明を営んでいました。春秋時代に倭族は漢人の中原諸国に攻められ、越や呉を建国する過程で難民が四散し、山岳地帯のミャオ族やインドのタミル人や東南アジアのモン族になり、済州島や対馬の倭人=渡来系弥生人にもなりました。渡来系弥生人は刺青や温帯ジャポニカ米の水田稲作や貫頭衣や高床住居や鳥居やしめ縄などをもたらし、対馬に天国(あまくに)を建てました。

◎弥生時代
倭族=倭人=渡来系弥生人は北九州の縄文ムラに水田稲作を伝えて菜畑遺跡になり、更に朝鮮半島南部や本州や四国にも弥生文化を広げ、人口が縄文人より増加しました。朝鮮半島からも渡来して、無紋土器や支石墓などをもたらし、土生遺跡などになりました。縄文人と渡来系弥生人は混血して日本人=大和民族になりました。
日本列島は低地が狭かったので、ムラムラが低地や河川や収穫を奪い合って戦い、環濠集落が営まれました。勝ったムラはクニになり、対馬の天国(あまくに)の他に委奴(いと)国や出雲王国や吉備王国など百余国が建国されました。対馬の天国の天照(あまてる)王の子孫は出雲王国に国譲りを要求して征服し、出雲王国は銅鐸や銅剣を大量に隠して、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡になりました。国々は戦争を続け、最後まで徹底抗戦して負けたムラは奴隷にされ、被差別部落の起源の一つになりました。
委奴国は支石墓を営み、後漢に朝貢して、「漢委奴国王」印を授かりました。天国はニニギ王が北九州の日向(ひむか)峠などに天孫降臨し、委奴国や奴国などを服属して倭国になり、北九州や朝鮮半島南端などを支配し、甕棺墓群を営んで須玖岡本遺跡になり、三種の神器を祀りました。
倭国の大乱で高地性集落が増え、青谷上寺地ムラは全滅し、倭国から一部の末端勢力が追い出されて東征し、奈良盆地の飛鳥川の扇状地の銅鐸勢力を滅ぼし、ヤマト王国を建てて、162年頃に神武王になりましたが、その後9代目までは大した事績も無く、欠史八代になりました。
倭国の大乱を卑弥呼王が収めると、倭国内は30カ国程に纏まりました。後漢から三国時代に変わり、遼東半島には後漢から公孫氏が独立して、倭国を脅かしました。238年に魏が公孫氏を滅ぼすと、倭国の卑弥呼王は魏に朝貢したので、今度は呉が倭国を脅かし、倭国は有明海沿岸の吉野ケ里ムラを軍事基地にして備えました。

◎古墳時代
ヤマト王国の崇神王は巻向方面を征服して、神殿を建て、ヤマト同盟の諸国が種々の様式の土器を持ち寄り、纏向遺跡になりました。彼は改めて始祖王とされました。高句麗からの渡来人がヤマトや倭国などに古墳文化をもたらし、百済や新羅からも渡来しました。崇神王朝は巻向石塚古墳や箸墓古墳や行燈山古墳や渋谷向山古墳などを営みました。
倭国は沖ノ島で祭祀しました。百済は高句麗や新羅と対抗したので、倭国と同盟し、倭国に七支刀を奉りました。倭国は高句麗と戦い、高句麗広開土王碑に記されました。ヤマト王国は参戦せず無傷だったので、騎馬軍で大阪平野を征服し、古市古墳群や百舌鳥古墳群の巨大古墳を営みました。
魏の後継が南朝になったので、倭国の五王は南朝の宋に朝貢し続けました。倭国は朝鮮半島南端に前方後円墳を営みました。百済の蓋鹵王は新羅と対抗したので、倭国と同盟し、倭国王に銘文鉄剣を奉り、江田船山古墳に副葬されました。
関東の加多支鹵大王は部下に銘文鉄剣を下賜して、稲荷山古墳に副葬されました。
ヤマトの継体王は倭国の磐井王を磐井戦争で敗り、ヤマトの物部将軍は倭国から七支刀を奪い、石上神宮に納めました。

◎飛鳥時代
倭国は大宰府を都とし、仏教を取り入れ、倭国王阿毎字多利思北孤(あめのたりしひこ?)は遣隋使を送りました。
ヤマト王国は征服した諸国の元王達に古墳の祭祀を禁じ、皇室の祖先神をアマテラスだとし、諸国の元王達の祖先神をアマテラスの子分の神々として序列化し、古墳の代わりに神社を建てさせました。更に外来の仏教を強制し、古墳の造営を禁じて、寺院の建築を推し進めました。
倭国は白村江戦争で新羅や唐に敗れて衰えましたが、ヤマト王国は参戦せず無傷でした。
7世紀末にはヤマト王国が国名を日本とし、その王を天皇と改め、東国農民を防人として倭国に送って滅ぼし、西日本を統一しました。日本は諸国の歴史書を集め、それらを参考文献にして、「天皇紀」「国記」「帝紀」「旧辞」などを編みましたが、それらは失われ、更に「古事記」「日本書紀」を著し、参考文献を焚書し、倭国の歴史を抹殺しました。

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ois********さん

2020/1/1812:21:21

伊勢神宮を創建したのが飛鳥時代の天武天皇ですが、初めて伊勢神宮を参拝した天皇は明治天皇です。

伊勢神宮は天照大御神をお祀りしており、確かに皇祖神とされているのですが、皇祖神であれば代々の天皇家が参拝してもおかしくないですよね。

一説によると、天照大御神は古い起源を持つ土着神で、この強力な神と皇祖神を合体させたのが天武天皇だとも言われています。恐れ多い神ということで、祟りを恐れ参拝しなかった可能性があります。

実際に天照大御神の祟りがあったという記述もあり、あわてて天照大御神の父母を祀ったこともあったそうです。

天武天皇以前までは、皇祖神(天皇家の氏神。それぞれの有力氏族はそれぞれの氏神を祀っていたと考えられます)は天皇家の御屋敷内で祀られていたそうです。自分の御先祖様なんですから恐れる必要はないですよね。

これは仮説になりますが、天皇家が支配を強固にしていく過程で政治・宗教的要請により、土着の強力神と皇祖神を合体させた可能性があります。

皇祖神は氏神ですから、皇祖神をルーツとする家系の人たちだけがお参りし祀るものです。平安時代の記録からは、無関係な者が伊勢神宮を参拝することを禁じていたことが分かります。

こういった先祖崇拝・祖霊崇拝は古代中国・朝鮮で見られますが、氏(同じ姓)を同じくする者たちが集まって祖霊を祀る宗廟を建て、それを祀っています。”陳氏宗廟”とか”金氏宗廟”というのが中国文化圏や朝鮮にはあります。韓国や東南アジアの華人地区には立派なビルを構える〇氏会館といったものがある有力氏族も居ます。
(参照:本貫システム。伊勢神宮は遷移を繰り返していますが、今は伊勢が天皇家の本貫とされています)

この中国や朝鮮の祖霊崇拝システムで特徴的なのは、
・祖霊はその子孫しか祀ることはできない
・霊は分けられない(分祀できない)
・霊は他の霊と合体させられない
というのがあり、これが日本人の霊魂観と異なるということが指摘されています。

飛鳥時代の頃は、まだまだ古代神道の考え方も定まっておらず、揺らぎがあり、試行錯誤の段階だったんだと思います。そういう段階で参考にする情報と言えば大陸・半島の情報であったかもしれません。

渡来人から、祖霊崇拝についての”間違い”が色々と指摘されたんじゃないでしょうか?

伊勢神宮に斎王(天皇系の子女)が送られるのは、何か”人質”のような感じもします。

fukufukuman1さん

編集あり2020/1/1811:00:05

元伊勢は、崇神天皇の皇女豊鍬入姫命が、笠縫邑に八咫鏡を移したのか始まりで、崇神6年の事ですが、帝記によると崇神天皇の即位が、西暦220年だから、西暦226年に移したのから始まり、倭姫に引き継がれ90年または、45年かけて、今の伊勢神宮に落ち着きましたから、西暦316年前後の事です。記紀は、主に持統天皇時代藤原不比等監修で作られているのでだいぶ後の8世紀前半ですね。

記紀は、政治的背景があり天皇の寿命を2倍にして、系図を誤魔化しているので、辻褄が合わないのは当然で、持統天皇の以前は、春秋歴史を使いましたから、約2倍になっています。元伊勢で一番長いのは、籠神社の4年間です。

籠神社の国宝の海部系図は、ニニギのお兄さんの天火明の養子のニギハヤヒから始まっています。ニギハヤヒは、神武天皇の時代にもでて来ますが襲名制である可能性もあるので事実確認は困難です。記記では、神武天皇の前のウガヤフキアワズ王朝を約70代分も隠していますから辻褄が合わないのは当然です。

天照大神は、2800年から2700年前の方ですが、ヤマヒコの時代に富士王朝から別れて九州王朝が始まり、イツセ命や佐野命の起源30年頃の奈良への移動が神武東征として描かれています。神武天皇の即位は、起源57年です。つまり、豊玉姫と活タマヨリ姫の間が抜けていて、歴代の天皇の寿命を長くして誤魔化しているのが真相です。活と言うのが誤魔化しの暗号です。

元伊勢は90年間の移動期間しかない事が一点目。

天照大神のひ孫のヤマヒコの代からの日向ウガヤ朝70代に及ぶ700年間が抜けて隠されてしまった事が2点目。

さらに、神社は、秦氏が来てから建てられていますので、奈良時代が始まりで、神社として確認出来る痕跡は6世紀以降なのは、当然です。それ以前は石とかですね。

神武天皇は、2600年前の方ではなく、2000年前の佐野命ですが、その前には、天照大神から続くヤマヒコ系の九州の王朝があり、平行して奈良にも、天照大神から続くニギハヤヒの王朝があったのです。だから、どちらも天神の証拠を持っていて、すんなり和解ができたのです。

3点目は、記紀から天照大神は、記録から神話とされ、男神から女神に変えられてしまっています。

この時、天照大神は、リニューアルされてしまい、元々の歴史を隠されてしまっています。

この頃から、新しい天照大神の像を作られていると言うのが真相です。

なので、天照大神は、古事記・日本書紀成立以前から存在していた神でしょうか?

イエスとも、ノーとも言えますね。女性天照大神は、ノー。男性天照大神ならイエス。

天照とセオリツヒメやヒルコの史実を隠して神話化されたのが、記紀ですから。

日本に歴史書がなくなったのは、白村江の戦いで破れ、傀儡政権の時期があったからしょうがない事ですね。

昔の記録は、全て廃棄処分でしたからね。

イスラエル民族及びメソポタミアの伝承も混じっていますね。

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zab********さん

2020/1/1507:39:40

天照大神は、7、8世紀にかけて、ヤマト王権が天皇家の始祖に名前と経歴をつけたものです。
もちろんヤマト王権も天皇(当時は大王)も、古事記、日本書紀以前から存在しています。その始祖である天照大神のモデルになった王もいたはずです。

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石ころさん

2020/1/1504:43:19

逆に考えて見てください。

信仰する神もいないのに古事記が書かれるわけが無いでしょう。

天照大神は日本を作ったとされる神ですから、
この大地ができる前から存在していた神ということになりますよね。普通に。

神が人々によって手厚く祀られる神社などの成立は、その後文明が発達してからでしょう。
縄文時代の人は大きな岩や樹木などを用いて神を崇めていたんでしょうから。

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