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昭和40年代の日本人はどんな生活をしていたのでしょう?

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ID非公開さん

2020/3/211:05:04

昭和40年代の日本人はどんな生活をしていたのでしょう?

50代・60代の方、身近な事で覚えている事を教えて下さい。
私の知る限り当時の大阪交野市は・・・
☆ロバに荷車を引かせてパンを売りに来る「ロバのパン屋」が時々近所に来た。
☆夏の暑い日は、百貨店の天井に取り付けられた大きな扇風機みたいなプロペラが回っていた。
☆主要な踏切の脇には小さな小屋があって踏切番のおじさんが居た。
☆路面電車の駅で、回数券を小分けして売って小遣い稼ぎをするオバサン達がいた。
☆トロリーバスという路面バスが走っていた。
☆トロリーバスの方向指示器は照明が点滅するタイプじゃなくて、
車体の左右にある矢印みたいなのがパタンと倒れるタイプだったような気がする。
☆マツダオート三輪のトラックT2000、三菱のオート三輪トラックみずしま号が、ダイハツミジェットが街を走っていた。中にはハンドルが丸じゃなくて、
飛行機の操縦桿みたいに丸の上下の部分が無い物も有ったような気がする。
☆白黒テレビを見ていたら、時々「しばらくお待ちください。」の静止画面になった。
☆白黒テレビ画面の隅に「カラー」と表示された白黒画面をカラーを想像しながら見ていた。
☆固定電話がまだ一般家庭に普及していなかったので、当時商売をしていて電話のあった我が家に、
時々近所の人が電話を借りに来た。
☆検便で、マッチ箱に○○○を入れて学校に持っていった。
☆肝油や虫下しのドロップをもらうクラスメートがうらやましかった。
☆教室のダルマストーブに入れる石炭を取りに行く石炭係があった。日直の仕事だったかも・・・。
☆公設市場でもらう券を台紙にのり付けして持っていくと景品に替えてくれた。
一節太郎ショーなどが当たることもあった。
☆魚屋などには、A4くらいの大きさのハエ取り紙や、
天井から吊るすハエ取りテープみたいなのがあった。
☆味噌屋はたるの上に綺麗にヘラで味噌を盛り上げていた。
☆乾物屋でジャコを買うと、天井からぶら下げた新聞紙の切れ端の束から一枚引き抜いて
器用に三角形にして、マスにすくったジャコをいれて、もれない様に蓋をして渡してくれた。
☆卵は新聞紙に、肉は竹の皮に包んでもらって買って帰った。
りんごは木の箱に入れてもみがらで埋めてあった。
☆小型飛行機から撒かれた大売出しのビラを拾った事がある様な気がする。
などなどです。少し記憶があいまいで、時代が前後しているところがあるかもしれません。
昭和40年代の懐かしい情景をご記憶の方は是非教えて下さい。

閲覧数:
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回答数:
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ベストアンサーに選ばれた回答

you********さん

2020/3/307:58:03

☆ロバに荷車はテレビではみました。なお牛馬が農作業したり、重い荷物を運搬してました。

☆百貨店天井プロペラ扇風機は回っていました。列車の中にもありました。

☆踏切番のおじさんはいましたね。用水の水番おじさんもいました。

☆回数券を小分けして売る女性もいました。また小分け販売する小屋もありました。

☆トロリーバスは乗りました。

☆トロリーバスの矢印は不明です。

☆三輪のトラックなどはよく見ました。昭和50年頃が最後だったような。

☆白黒テレビの「しばらくお待ちください。」はありましたね。

☆白黒テレビ画面の隅の「カラー」は不明。

☆固定電話の貸し借りはありました。

☆検便で、マッチ箱は親の世代です。

☆肝油や虫下しのドロップをもらうクラスメートがうらやましかったね。

☆教室のダルマストーブに入れる石炭を取りに行く石炭係はよくやりました。
薪ストーブもありました。

☆券を台紙にのり付けして持っていくと景品に替えるのは昭和50年代もありました。

☆大きなハエ取り紙はありましたね。ガラス瓶式のハエとりもありました。

☆たるの上に味噌を盛るのは平成以降だと思います。

☆天井からぶら下げた新聞紙の切れ端の件は覚えています。

☆卵は新聞紙、肉は竹の皮、りんごは木箱もみがらでしたね。みかんも木箱でした。

☆小型飛行機のビラは知りません。小型飛行機のスピーカーによる宣伝はありました。

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ベストアンサー以外の回答

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2020/3/309:04:45

でっかい オーディオ機器‥‥
スピーカーと あと LPレコードが入る棚

あんなモノに お金をかけていた 自分が





今では 情けなく思います‥‥

2020/3/222:56:26

昭和38年の土居中生まれですが、物心付いた時からカラーテレビでしたので、白黒テレビは昭和40年代のほんの初期化と思います。
ロバのパンはありましたが、流石にロバに引かせてないです。それは終戦後の20年~30年代かと思います。
はえとり紙はありました。ねちねちのやつがぶら下がってよく紙の毛がくっついて大変でしたね。あれ、捻って捻り出して垂らすんですが、捻り出して垂らすとき失敗して手がねちねちになりました。笑
蚊帳とかもありましたよ。
検便はマッチ箱です。ランドセルに弁当箱と検便を一緒に入れて背負って学校に行きました。
後は学校に洗面器に消毒液が入っていて、みんなが給食前に手を洗うんですが変えないので真っ黒な水になってました。
電話はない家が多かったですが、有線の固定電話機があり、町内は有線を使ってました。
固定電話と有線の同じような電話機が並んでましたが固定電話とかは殆んど使わなかったです。
今に比べるとなんと不衛生なって事多かったですが、皆何とも思わずあまり病気しなかったですね。

fur********さん

2020/3/219:57:24

人さらいがいた。

han********さん

2020/3/214:54:02

万博やってたそばでロバですか。すごいですね。

天井のファンはしゃれたカフェにはまだありますよ。

自分でズラズラあげるより、回答者に答えさせなよ。おっさん。

dar********さん

2020/3/213:57:08

懐かしくて思わず仲間入りです。60代なかばです。北海道の田舎町でした。
電話はダイヤルではなく電話機の脇に付いたクランクをぐりぐりぐりっと回すと交換嬢が出ました。私の家にはありませんでしたが。
自転車に一斗缶を積んだ水飴屋さんが来ることがありました。兄弟で2本買うと、割り箸の両端に巻きつけてボキッと折って二人分でした。
テレビは我が家には『ちろりん村』の頃登場しました。午後には放送休止の時間帯があったように記憶しています。
お祭りには白衣に軍帽の傷痍軍人がいました。父に「あれはほんとじゃないようだ」と聞かされたこともあります。
お店の包装は経木(スライスした木)でした。買い物には「通い帳」という掛け売りノートを母は持って行っていました。「あれで買い物ができるんだ」とわかった私はそれを持ちだしてお菓子を買いに行き、お店のおかみさんが家まで知らせに走ったそうです。5歳くらいだったようです。

思い出すとまだまだ出て来そうです。昭和30年代後半のことです。

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