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月日は百代の過客にして、ゆきかふ年もまた旅人なり 有名な出だしですが、この...

ラドバウトfGさん

2020/3/1917:30:32

月日は百代の過客にして、ゆきかふ年もまた旅人なり

有名な出だしですが、この文を読むたびに何かおかしいなという感じがします。

それが何かがハッキリとはまだつかめないのですが、月日を過客にたとえたのが失敗ではないのかというのがまずあって、年が「ゆきかふ」ものだろうか、という違和感が続きます。時間の流れは現在の所、非可逆的であってプリゴジーヌも説明に成功したと思います。とすると、百代はいいとして、月日=過客は矛盾ではないのでしょうか。
みなさんは、感じたことはありませんか。

補足みなさん、ありがとうございました。
BAなどつけるのはあまりにおこがましく、そちらは参加されている方の投票にさせていただきたく....
ありがとうございました。

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2020/3/1921:09:29

通常感覚としては、人は時間の中を旅するものだとみたてるのだろうが、芭蕉の場合は、人間(自分)が止まっていて、自分の前を時間(月日)が通り過ぎて行き、そこで色々な風景というものを見せてくれるというイメージだったのではないでしょうか。毎年のようにやって来ては、また去って行く年もまた、自分のところに一時留まり、それからまた自分の前を過ぎて行く客人のようなものだと思ったのではないでしょうか。
自分の作品の出だしの部分なので、それはそれは神経も使いながら入念に考え抜かれた表現だったのだと思います。
意味はよく分からぬながらも、特にこの序段の部分は格調高い文章だと思い、高校時代は暗証しました。

  • 質問者

    ラドバウトfGさん

    2020/3/2522:43:48

    ありがとうございます。
    なるほど。一つの見方ですね。
    ぼくは芭蕉は行動する発見者だと思っているので、決して止まって傍観している人ではなかったと思っています。

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よろしいですか?

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Voltaireさん

2020/3/1919:51:50

思いっきり言いたいことを言いますと、芭蕉の頃には国語の文法意識はなかったので、しょうがないんじゃないでしょうか。Time は Guest であって Traveller で尚且つ、Passenger だったという事でしょうね。

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qwe********さん

2020/3/1918:26:09

「ゆきかふ」には行き来するという意味のほかに、入れ替わり立ち替わりやってきては過ぎ去っていくという意味があります。
その場合、一つのものが行ったり来たりするのではなく、あるものが去ったら新しいものがやってくるということですから、不可逆性はないということになります。
「ゆきかふ年もまた旅人なり」の「ゆきかふ」は後者の意味で使われていると考えるのが妥当かと思います。

kom********さん

2020/3/1918:07:12

まあ芭蕉翁の時代にはえんとろぴーの概念などは発見されていなかったし、年月を人間と相対的に擬人化して壮大な時間軸のなかを、未来からあらわれ過去へすれ違って去って行ったり、あるいは過去から来たとおもえばそのまま未来へ過ぎていったりする自在なパノラマのように考えてみたというのがこの文の趣旨ではなかったかと私は思っています。すべては人間の思いの中でのことで、文章の中でも未来を想像したり過去を思い返したりできることからこのような発想が浮かんだのではないでしょうか。

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