●仏陀は、”欲望を捨てろ”とは言われていないのです。
仏陀釈尊は大きな欲を持っておられた。”世界中の人をみんな救う”
という大欲・大誓願を持っておられました。
釈尊は仏陀になられた後、亡くなられるときまでインド中を布教伝道
されました。そして亡くなられる前、自身の葬儀のやり方(火葬)と
その御聖骨を収めた塔(仏舎利塔)を多くの人が集まる所につくるこ
と、を指示され、さらに、この仏舎利に対しての礼拝供養の功徳を説
かれました。
「誰であろうと、花輪または香料または顔料をささげて礼拝し、また
心を浄らかにして信ずる人々には、長いあいだ利益と幸せとが起る
であろう。」
(『ブッダ最後の旅』中村元訳:岩波文庫 1985 第6刷 P132~)
釈尊は、輪廻から解脱され涅槃に赴かれましたが、仏舎利を通して、
いまだに人々を救われており、大誓願を続けておられるわけです。
仏舎利は、お釈迦様そのものということです。
●さらに、弟子たちに対しても、以下のように説かれました。
「わたしは法を知って説示したが、お前たちは、それをよく保って、
実践し、実習し、盛んにしなさい。それは、清浄な行いが長くつづ
き、久しく存続するように、ということを目指すのであって、その
ことが、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、
世間の人々を憐れむために、神々と人々との利益・幸福になるため
である」
「その(法)とは何であるか?それはすなわち、
1.四つの念ずることがら(四念所)と
2.四つの努力(四正勤)と
3.四つの不思議な霊力(四神足)と
4.五つの勢力(五根)と
5.五つの力(五力)と
6.七つのさとりのことがら(七覚支)と
7.八種よりなるすぐれた道(八正道)とである。
<以降、上記の文「お前たちは、それをよく保って・・・」が繰り
返されている>」
(『ブッダ最後の旅』中村元訳:岩波文庫 1985 第6刷 P95~)
上の法は七科三十七道品といいますが、これらを、”世を救い人々を
救う”という誓願のために、実践し、実習し、さらに人々に広めなさ
いと説法されているわけです。釈尊ご自身が行われたように。
●また、仏陀は、”執着を捨てろ”とも言われていない。
釈尊は、"怠るな、努めはげめ”と叱咤されている。つまり努力精進
せよ、と言われているわけです。それは、言葉を変えれば、”良い
ことには執着せよ”ということではないですか!
●釈尊が”捨てろ”と言われたのは、’我欲’’我執’のことです。
これらは、貪り、おごり、怒り、愚痴といった煩悩のもとになるもの
であり、結局、世の中の迷惑になり、さらに自分をも破滅させるもの
ですから無くさねばなりません。
もっとも欲望とか執着といった言葉自体が、’我欲’’我執’の意味
に暗黙になりやすいのですが、それを拡大解釈して、”すべての欲望
や執着をなくせ”と言っていると考えるのは大きな間違いです。
●”煩悩即菩提”を目指す。
欲望や執着は、’我欲’’我執’というマイナス面と、’誓願’’努力精進’と
いうプラス面があります。それは、自分のことしか考えないか、
世のため人のために、と考えるかの違いです。
しかし、根っこの力は同じもの。すなわち、煩悩が強い人は、その方
向を変えれば、仏陀という大聖者を目指す強い力を持てるということ
で、これが、”煩悩即菩提”ということです。
ただ理屈はその通りですが、実際は、”わかっちゃいるけど・・”と
いうのが凡夫ですね!自分の力だけでそれができる人は、もう聖者の
領域にいる人だと思う。
だから凡夫は、仏・正法・僧(サンガ)に帰依して、それができるよ
うに修行・訓練する必要があるということです。その最初は、自分の
ことだけ考えているようでは駄目だ、ということに気づくことです。
昔からのことわざにありますよ。「情けは人の為ならず」
人に情けをかければ、巡り巡って結局自分が救われることになる。
ただ、こういう奥ゆかしい表現では、誤解する人もいるようなので、
肯定的に言ったほうが良いかもしれませんね!
・「情けは我が身のためになる」
・「情けは我が身をも救う」