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どんな死に方で死んでもいいのです。 「こうして、「生まれた者どもは、死を逃れる道がない。老いに達し、そして死ぬ。実に生ある者どものサダメは、まさにこのとおりである。・・・だから、人が死んで亡くなったのを見る時、彼はもう私の力の及ばぬものなのだ、と悟って、嘆き悲しみを捨て去れ。(スッタニパータ、575〜590)」 というのが仏教の死に関する考えでした。 ブッダの教えは、 「現に証せられるもの」、 つまり、現実の世界で実証できるものであり、 「時を隔てずして果報あるもの」、 つまり、未来の果報を約束するものではなく、 今ここでその結果が現れるものであり、また、 「来り見よというべきもの」、 つまり、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すが如く、 はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。 仏陀は、むしろ、死とは人間の終わりであり、そういうものだということをよく知って、生に執着すべきでないことを、教えています。 現実を直視してそこから逃げないことを仏陀は教えます。 これが、仏陀の思想のもっとも基本的な教えの一つである 「無我」の思想です。 仏陀は人間の知識の届かない神秘的な事柄への言及は避けました。 祈祷や呪文や神への捧げ物や宗教儀式や運命判断など、 全く無意味であることを説きました。 神秘的な力によって何事かなそうというような夢事から目覚めて、 何が人間の非苦の要因であるか (縁起 (全ては様々な相互関係から 成立している、人間の悲苦にもそれを成立させている 様々な原因や条件がある、仏教の実践は、 人間の悲苦を成立させている様々な原因や条件を分析する ところから始まります。その無知を克服する努力なくして (分別心を捨てて)は人間の悲苦は克服できない)、 の理法)を究明し、 その要因を取り除く道を見つける人のことを、 目覚めた人(ブッダ)と呼んだのです。
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