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諸葛亮は、やはり三国志最強の軍略家だったのではないでしょうか?というのは、最...

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ID非公開さん

2020/6/2713:50:54

諸葛亮は、やはり三国志最強の軍略家だったのではないでしょうか?というのは、最弱国であった蜀をあそこまで持たせたからです

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lrt********さん

2020/7/315:06:06

最強の戦略家と言えば間違いなく曹操です。
三国志1の知略と兵法使いと思います。
そして、その曹操を赤壁の戦いで3万の兵力で撃退した周瑜が次点でしょう。
諸葛亮の天下3分の計より周瑜が描いていた天下2分の計の方が戦略として優れてます。
曹操の統率力、政治力、知力、兵法の知識全てにおいて非常に優れてます。
だから、曹操だけは軍師も大都督もおいてなかったし。

hom********さん

2020/7/118:59:06

結論から言うと、諸葛亮が三国時代最強の軍略家であるのは間違いありません。

諸葛亮の軍事・軍略上の才能は小説『三国志演義』のでっち上げであるとコメントしている人が結構いるようですが、これらの人たちは恐らく中国史をちゃんと学んだことが無い人たちでしょうね。



一、諸葛亮の軍事家・軍略家としての歴史的地位

『武廟十哲』の地位から一度たりとも落ちたことが無い。この驚異的な事実だけでも諸葛亮の軍略家としての才能を証明するのに十分でしょう。

『武廟』とは唐の時代から始まった、歴史上の軍事家・軍略家達を「軍神」として祭るために設置された廟で、軍神には「聖位」>「哲位」>「将位」の順位が存在します。

最高位の「聖位」には太公望が常に君臨していましたが、「聖位」に続く「哲位」には諸葛亮を含む十人が選ばれており、「武廟十哲」と言われています。

この「十哲」の当選者は、時代によって変わったりしています(例えば唐の時代で当選している秦の戦神白起は、宋の時代では十哲に選ばれていません)。しかし、諸葛亮はいずれの時代でも例外なく「十哲」に選ばれているのです。

ちなみに、小説『三国志演義』は明の時代で創作されたものなので、「唐の時代や宋の時代の人たちがフィクションの影響を受けて、本当はすごくない諸葛亮をすごい人と勘違いして十哲に選んだ」なんてことはもちろんあり得ません。

むしろ真逆なのですよ。歴史上常に軍事・軍略面において高い地位があったからこそ、フィクション創作においてもその歴史事実を尊重して孔明の才能を忠実に再現して見せた、の方が正しいのです。

※武廟十哲については、中国語が分かる方はこちらを参照ください。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%BA%99



二、諸葛亮の軍事家としての戦果

『晋書』『三国志』といった歴史書をちゃんと見ている方は、北伐において司馬懿と対決した時の三国志演義の軍事的才能が如何にすごかったかがちゃんと分かるはず。

第一次北伐で諸葛亮が鹵城で大勝利をおさめ、司馬懿は引き籠り、打って出た張郃の部隊は鹵城東北部で諸葛亮に撃破され、名将張郃は戦死。当時の司馬懿が率いるは、張郃、郭淮、費曜、戴陵といった超豪華メンバーでした。にもかかわらず正面対決で諸葛亮に負けたのです。

以降、諸葛亮が北伐する度に、司馬懿は正面衝突を避け、ただひたすら守りに挺し、諸葛亮の遠征軍の兵糧尽きを待つことしか出来ませんでした。

もともと蜀の国力は魏の国力より遥かに劣っていました。しかも夷陵の戦いでかなり消耗してしまい、諸葛亮北伐の時点での蜀と魏の差は極めて大きかったのです。

『三国志』の裴松之の注釈では、当時の蜀の兵力は魏の九分の一に過ぎなかったそうです「孔明起巴、蜀之地,蹈一州之土,方之大国,其戦士人民,盖有九分之一也」。

にもかかわらず、「仲達据天下十倍之地,仗兼并之衆,据牢城,擁精鋭,無禽敵之意,務自保全而已,使彼孔明自来自去。」

つまり、司馬懿は天下十倍の国土と精鋭なる軍事力を擁していながら、諸葛亮を前に守りに徹することしかできず、諸葛亮が魏の国土を自由に来たり行ったりするのを全く阻止できていなかった。という意味です。

そもそも呉の張儼や、後の唐太宗李世民も評価しているように、国力において自分の国の十分の一ほど劣っている小国を前に、ひどく打ち負かされて以来ずっと消極的に守りに呈することでしか戦えない司馬懿は、それだけ諸葛亮との軍事家としての才能の差があり過ぎたとしか言えないのですよ。

諸葛亮がいなければ、司馬懿の時代で魏は蜀を滅ぼしていた可能性だって十分あったのです。にもかかわらず、蜀を滅ぼすどころか、逆に蜀に打たれて引き籠ってしまうとか、『晋書』ですら宣帝を情けないと評価しているほどです。

司馬懿は別に軍事家としての才能がないわけではありません。孟達の反乱を強行軍奇襲で打ち破り、公孫淵を遼隧の戦いで『声東撃西』の策で撃破し、王凌を甘城の戦いで倒したりするなど、非常に輝かしい戦果を挙げています。

司馬懿が弱いのではなく、諸葛亮がとにかく軍事面で強すぎたのです。



三、軍事家の頂点とは戦いに勝利することではない。

『孫子兵法』では戦闘に勝つことよりも、軍事制度の建立や、戦略戦術の確立などの方が軍略家として重要であるとしています。

諸葛亮孔明は、「治戎為長」(地方の異民族を上手く治めることが大事)という思想を立てており、孟獲の反乱を平定した後に人口略奪を強要することなく、その地の民族にその地を収めさせることで西南の安定を確保しました。

(一方魏の方は、曹操の時代から鮮卑や匈奴の人口を強制的に関内へ移し、異民族の人口が激増したため、後の晋王朝の滅亡の切っ掛けとなった永嘉の乱の原因を作ってしまっています)

また、諸葛亮の「用兵倚伏の法」を司馬昭が求めたり(出所:『晋書』)、後の南北朝時代において諸葛亮の「八陣の法」を採用して北方の異民族騎兵を退けたり(出所:『魏書』)、後世における諸葛亮の軍略や兵法の影響力はもはや計り知れません。

また、諸葛亮が張郃を打ち破った鹵城之戦は、中国軍事史上初となる「両翼包囲(軍事用語:Double Envelopment)」を打ち砕くことに成功した実戦例でした。しかも当時の「両翼包囲」を指揮っていたのは魏の名将として名高い張郃であり、これに勝ったことがどれ程すごいことかお分かりいただけると思います。

現代中国においても、鹵城之戦の諸葛亮の戦術に関して様々な分析や研究が行われているのです。

(ちなみに、鹵城之戦については日本語ウィキ項目の紹介が無いのが誠に残念です。英語ウィキ項目やフランス語ウィキ項目はあるのに……)



四、結論

諸葛亮が三国志最強の軍略家ではない、と言っている人達はきっと、三国史を研究したことが無いくせに、わざと知ったかぶりをするような大バカ者どもでしょうね。

多分、「『三国演義』がフィクションである」のを根拠に、「『三国演義』に登場する諸葛亮の才能もきっとフィクションだ」という全く因果関係もロジックも成立しない結論を出しているんじゃないでしょうかね。

或いはネットで「歴史上の孔明は実はすごくないよ~」的な記事を一目二目見た程度で諸葛亮を知り尽くしたと思い込んでいるのかもしれませんが。

知らないのなら「知らない」と正直に言えばいいのに、或いはもう答えなくていいのに。知ったかぶりはよくありませんよ。(まあ、日本国内には『三国志』『晋書』や裴松之の『三国志注』などが流通していないので、仕方がないといえば仕方がないかもしれませんが)

歴史というのは、実はフィクションよりも遥かにすごいのです。むしろフィクションの中の諸葛亮の方が弱く見えるほどですよ。

非公開さん

2020/6/2811:01:02

正史の作者陳寿によると、孔明は稀有な政治家であると評価しつつも、軍事の方は連年の北伐で国力を疲弊させ、軍略家としては臨機応変の術は得意でなかったとお茶を濁した評価になってます。

演義のような神懸かり的な軍略家というのは作り話です。

最弱の蜀があそこまで持ったのは、孔明の政治手腕もあるでしょうけど、一番の理由は巴蜀から漢中への険しい山脈という天然の要塞があり、かつて劉邦もそれが理由で項羽の目を逃れ軍備を整えたと言われてます。

この山脈と、呉を守った長江がなければ、魏はもっと早く天下統一できたと思います。

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kum********さん

2020/6/2723:36:53

諸葛亮は政略、戦略、それと軍の統率力に優れており、非常に優れた人物です。ただ、陣中における策の構築とその決断、実行力が弱かった。

そのことは司馬懿も弟にあてた手紙で書いています。その部分において諸葛亮は曹操や司馬懿、張コウと言った武将たちに及ばないのです。優れた司令官ではありながら、自らが攻勢となるとなかなか勝ちが拾えないのは、やはりそこに一因があると思うのです。

私評ですが諸葛亮は以下のような感じで私は評価しています。MAXは200です。比較として司馬懿を載せておきます。

諸葛亮
軍事095 統率156 知謀128 政治194
司馬懿
軍事123 統率117 知謀183 政治150

司馬懿は奇襲や急襲が得意ですが、諸葛亮相手だと先に戦場で陣を構築され、一番得意とする奇襲がかけられず、正面から攻撃をしてしまった。こうなると諸葛亮の防衛力(統率)の高さから撃退されてしまう。また司馬懿は諸将の統率に苦労しており、その部分(統率)でも諸葛亮には後れを取っている。

しかし諸葛亮も攻撃を仕掛けた場合(隴西、陳倉、五丈原)は全て撃退されており、攻勢側(軍事)での力不足を感じさせる。また司馬懿を挑発するも上手くいなされ、それ以上の策(知謀)を示すことができず、結果として自らの死によって撤退、と言う状況に陥った。

ある意味、お互いの良さは出しつつも弱点部分を克服できず、と言う戦いでしたね。

  • kum********さん

    2020/6/2723:43:42

    後、魏は蜀だけでなく、呉(荊州、揚集)以外にも北方や西方異民族に対してもにらみを利かせないといけなかったので、実はそこまで対蜀戦線で圧倒的と言うほどの兵力を動員できていません。

    実際、第一次北伐の時、魏側は曹真と張コウ、郭淮が出ていますが、曹真は趙雲よりも兵力が少なく、張コウが5万、郭淮は不明ですがそこまで大動員はできていないはずです。

    第一次の蜀軍が7万と仮定すると、トータルではほぼ同数ぐらいなんじゃないかな、と思いますね。

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わをんさん

2020/6/2722:06:13

『三国志演義』のイメージが先行しているが、諸葛亮は軍略家などではなく行政官でしかありません。

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    質問者

    ID非公開さん

    2020/6/2722:08:25

    それよく言われますね。正史ではそうかいてますが、実際あれだけの小国で大国相手にやり合ったってのはかなりの物ではないでしょうか?もし軍略家のチカラを持ってなければ、それ相応の軍略家が必要ですし、蜀を見る限りいませんし、劉備や諸葛亮は実際はもっと評価されてもいいのではなかったのでは?と思いました。

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