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邪馬台国や卑弥呼の元になるような、国や人物がいたとして、それらは現在の天皇家...

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ID非公開さん

2020/7/311:12:20

邪馬台国や卑弥呼の元になるような、国や人物がいたとして、それらは現在の天皇家や大和朝廷につながってるのでしょうか?全く関係ない、その頃、日本にあった国や王女の事を言っている可能性はありますか?

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lan********さん

2020/7/821:53:50

奈良から勢力を伸ばした日本(大和朝廷)が、九州を制圧したときに、田油津姫や神夏磯姫など、複数の女王国を平定しましたが、さしずめ、これが邪馬台国の末裔国家でしょう。

日本書記にも、神功皇后が九州から朝鮮南部を平定したあたりで、「このあたり九州は昔、倭言うてな~、女王国が魏から印貰ろたんやで~」って、記録されています。

魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬・・・以下略します。

dul********さん

2020/7/803:50:45

邪馬台國は九州熊本県中南部あたりの國であり、そして邪馬台國は畿内の大和中央王権に従う地方王権の一つに過ぎなかったということです。卑弥呼は地方王権の女王殿下程度に過ぎなかったのです。

shi********さん

2020/7/715:42:04

ああ、邪馬台国福井説ありましたね。そうか、継体天皇が事実上の皇祖だと福井ありえますね。
「邪馬壱」を当時の中国語で素直に読むと、「サバイー」になるそうです。つまり、今の鯖江に邪馬台国があったって説がだいぶ前にあって、当時読んだ時は、「さすがに福井は…」って思ったのですが、継体天皇なら福井でつながるんですね!日本海王朝説、意外といけるかも。
敦賀(ツヌガアラヒト)も福井ですしね。う~む
(近畿のヤマト政権は邪馬台国とは直結してないと思う。金印と鏡を持った邪馬台の子孫を、ヤマトが征服または征服された可能性ならあると思いますが)

zzz********さん

2020/7/601:36:48

あくまでも歴史の流れからして、大乱が起こり大和勢力が政権を取っていない以上、関係あると思うよ

aka********さん

2020/7/323:47:19

つながっていません。

◎縄文時代
縄文時代に森林で縄文人が縄文文化を営んでました。長江下流から西日本にかけて照葉樹林が茂っていました。長江下流では倭族が刺青や温帯ジャポニカ米の水田稲作や貫頭衣や高床住居や鳥居やしめ縄などの照葉樹林文化と長江文明を営んでいました。倭族は水田稲作で人口爆発して四散し、山岳地帯のミャオ族やインドのタミル人や東南アジアのモン族になり、済州島や対馬の倭人=渡来系弥生人にもなりました。渡来系弥生人は刺青や温帯ジャポニカ米の水田稲作や貫頭衣や高床住居や鳥居やしめ縄などをもたらし、対馬に天国(あまくに)を建てました。

◎弥生時代
倭族=倭人=渡来系弥生人は北九州の縄文ムラに水田稲作を伝えて菜畑遺跡になり、更に朝鮮半島南部や本州や四国にも弥生文化を広げ、人口が縄文人より増加しました。朝鮮半島からも渡来して、無紋土器や支石墓などをもたらし、土生遺跡などになりました。縄文人と渡来系弥生人は混血して日本人=大和民族になりました。
日本列島は低地が狭かったので、ムラムラが低地や河川や収穫を奪い合って戦い、環濠集落が営まれました。勝ったムラはクニになり、対馬の天国(あまくに)の他に委奴(いと)国や出雲王国や吉備王国など百余国が建国されました。対馬の天国は加耶も領有し、その天照(あまてる)王の子孫は出雲王国に国譲りを要求して征服し、出雲王国は銅鐸や銅剣を大量に隠して、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡になりました。国々は戦争を続け、最後まで徹底抗戦して負けたムラは奴隷にされ、被差別部落の起源の一つになりました。
委奴国は支石墓を営み、後漢に朝貢して、「漢委奴国王」印を授かりました。天国はニニギ王が北九州の日向(ひむか)峠などに天孫降臨し、委奴国や奴国などを服属して倭国になり、北九州や加耶などを支配し、甕棺墓群を営んで須玖岡本遺跡になり、三種の神器を祀りました。
倭国の大乱で高地性集落が増え、青谷上寺地ムラは全滅し、倭国から一部の末端勢力が追い出されて東征し、奈良盆地の飛鳥川の扇状地の銅鐸勢力を滅ぼし、ヤマト王国を建てて、神武王になりましたが、その後9代目までは大した事績も無く、欠史八代になりました。
後漢から三国時代に変わり、遼東半島には後漢から公孫氏が独立して、倭国を脅かしました。238年に魏が公孫氏を滅ぼすと、倭国の卑弥呼王は魏に朝貢したので、今度は呉が倭国を脅かし、倭国は有明海沿岸の吉野ケ里ムラを軍事基地にして備えました。

◎古墳時代
ヤマト王国の崇神王は巻向方面を征服して、神殿を建て、ヤマト同盟の諸国が種々の様式の土器を持ち寄り、纏向遺跡になりました。彼は改めて始祖王とされました。高句麗からの渡来人がヤマトや倭国などに古墳文化をもたらし、百済や新羅からも渡来しました。崇神王朝は巻向石塚古墳や箸墓古墳や行燈山古墳や渋谷向山古墳などを営みました。
倭国は沖ノ島で祭祀しました。百済は高句麗や新羅と対抗したので、倭国と同盟し、倭国に七支刀を奉りました。倭国は高句麗と戦い、高句麗広開土王碑に記されました。ヤマト王国は参戦せず無傷だったので、騎馬軍で大阪平野を征服し、古市古墳群や百舌鳥古墳群の巨大古墳を営みました。
魏の後継が南朝になったので、倭国の五王は南朝の宋に朝貢し続けました。倭国は朝鮮半島南部に前方後円墳を営みました。百済の蓋鹵王は新羅と対抗したので、倭国と同盟して、倭国王に銘文鉄剣を奉り、江田船山古墳に副葬されました。
関東の加多支鹵大王は部下に銘文鉄剣を下賜して、稲荷山古墳に副葬されました。
ヤマトの継体王は倭国の磐井王を磐井戦争で敗り、ヤマトの物部将軍は倭国から七支刀を奪い、石上神宮に納めました。

◎飛鳥時代
倭国は大宰府を都とし、仏教を取り入れ、倭国王阿毎字多利思北孤(あめのたりしひこ?)は遣隋使を送りました。
ヤマト王国は征服した諸国の元王達に古墳の祭祀を禁じ、皇室の祖先神をアマテラスだとし、諸国の元王達の祖先神をアマテラスの子分の神々として序列化し、古墳の代わりに神社を建てさせました。更に外来の仏教を強制し、古墳の造営を禁じて、寺院の建築を推し進めました。
倭国は白村江戦争で新羅や唐に敗れて衰えましたが、ヤマト王国は参戦せず無傷でした。
7世紀末にはヤマト王国が国名を日本とし、その王を天皇と改め、東国農民を防人として倭国に送って滅ぼし、西日本を統一しました。日本は諸国の歴史書を集め、それらを参考文献にして、「天皇紀」「国記」「帝紀」「旧辞」などを編みましたが、それらは失われ、更に「古事記」「日本書紀」を著し、参考文献を焚書し、倭国の歴史を抹殺しました。

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