三国志の夷陵の戦いについて。 劉備軍は秭帰を瞬く間に落としましたが、なぜ孫桓が守る夷陵の城を落とせなかったのでしょうか?

三国志の夷陵の戦いについて。 劉備軍は秭帰を瞬く間に落としましたが、なぜ孫桓が守る夷陵の城を落とせなかったのでしょうか?

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ですね。孫桓は夷陵ではなく夷道です。夷陵には陸遜がいます、たぶん。 劉備は秭帰から水軍で夷陵まで進軍して夷陵の陸遜を誘い出そうとしますが失敗。で陸路に代えて秭帰から長江の南の山伝いに佷山から夷道へ進んだのでしょう。 陸遜が夷陵にいないと、劉備と長江を挟んで東西に対峙する、という図式が不自然に思います。劉備が夷陵まで落としていたら、戦場は荊州の平野部になるか、その入り口(夷陵付近)となるかですが夷陵は長江の北東岸にあるので、こうなると呉軍は荊州の平野部に駐屯するしかなく、劉備軍は長江の両岸を押さえてるんですから、水軍と合わせて長江流域が戦場になるでしょう。 問題は黄権のいた場所ですが、長江の北側なのは間違いないんですが、それが夷陵を回り込んだ荊州平野部なのか、夷陵の西側なのか・・・。 最終的に蜀へ帰れずに魏に降るんですから荊州側って気はしますが・・・。

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孫桓が守っていたのは夷道です、劉備は巫、秭帰を落として夷陵に布陣し、長江を挟んで陸遜と対峙しながら夷道を包囲しています 夷陵と言うのは長江を下って荊州の出入り口になります、つまり巫、秭帰は敵の本陣と対陣するまでの通路にすぎず守備兵も少ないです、一方夷道の孫桓は陸遜が派遣した守備隊ですから守りは厚いです

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