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三国志の曹操は、呉ではなく劉璋の蜀を先に攻めることはできませんでしたか?

三国志の曹操は、呉ではなく劉璋の蜀を先に攻めることはできませんでしたか? 呉が降伏するか戦うかわからないから、学者や軍人を含めて総勢20-100万の大軍で長江にそって南下したら、赤壁の戦いと疫病でケチがつく敗戦となって、三国分立の時代を迎えてしまいます。 これで思ったのです。 漢王朝の臣下である劉璋の蜀を、漢中を攻略したいきおいで西進してはいけませんか? 水軍ではなく、曹操軍の強みの陸軍を活かして、攻略できます。 劉璋の臣下は、呉の臣下より平和路線ですぐれた武官は劉備の蜀より少ないです。 蜀攻略は、劉備ができたのだから、曹操もできたはずです。 その後、劉備が呉に侵攻したように長江を上流の蜀で渡って、陸軍は南下。水軍は長江に沿って河を下っていけば、水陸両軍で呉を殲滅できたと考えます。 曹操様が内政を捨ててでも統一を目指すか、弱い劉璋の時代に蜀を攻略していれば。司馬家が出る前に曹家も長続きして良かったのに。と、思って考えてしまいます。

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回答(10件)

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まず、荊州が曹操に降伏したことで、曹操は蜀にも江東にも攻め込むことができるようになったわけですが、劉障は基本的に曹操の意志に恭順しているわけです。つまり、倒す必要もなく、曹操の手先みたいなものなんです。 となると、あとは曹操に逆らっている有力なグループは、もう、江東の孫家しかないんですよ。正直、この時点で8割方天下の大勢は決まったので曹操は孫権に降伏の使者を送るわけです。そんなわけで孫家では降伏派と交戦派の言い争いが起きるんですね。 質問主様の言葉をつかえば、天下を取るために江東に攻め込もうとしたわけです。ですが、軍師のカクはこれを止めています。このまま荊州をしっかり治めて、10年くらい待っていればあっちから降伏してくるからと。もうそれくらいの戦力差があったんです。 よって、いち早く天下を統一するには、呉を攻めるしかなかったんです。そのままにしていれば、天下が治まるのに、蜀を攻めるなんて無駄骨なんです。どうせじっくり待つなら、恭順している蜀なんていらないということです。 まあ、この戦いで曹操は敗北したことで自分の代での天下統一はおそらくほぼ諦めたと思います。なので、この呉への侵攻は曹操が焦った結果の失敗なんです。 ただ、じっくり行くならいくでどっちにしても蜀なんて攻めなくてもいいくらいもう戦力差があるので、曹操陣営に蜀攻略なんて言葉は頭になかったと思われます。

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曹操の荊州併合や赤壁当時、劉璋は早々に恭順の意を示しています。 例えば使者を派遣して将軍位を曹操から劉璋はもらったこと、劉璋は早々に兵糧を提供していたこと。 普通に考えて劉備や孫呉以外にも、例えば雍州の馬超韓遂やその他異民族など敵対勢力はいるのに、協力してくれる側の人間をあえて先に討とうと思いますか?

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えー、まず、そもそも、多くの人が誤解してる気がするんですけど、そもそも、赤壁の戦いは、呉を討伐した戦いではありません。まあ、結果的に呉と戦うことになったわけですが。 河北を平定した曹操の次なる目標は劉表でした。 劉表は官渡の戦い以前に曹操ともやりあってますし、官渡以降もちょいちょいやりあっています。 まあ、敵対勢力だったわけです。 曹操は劉表を討伐すべく、大軍を南下させたわけですが、劉表はちょうどそのタイミングで病死し、後を継いだ劉琮は無血降伏します。 しかし、一番油断ならない劉備は逃れ、夏口の劉琦と合流してしまいました。 曹操としては、劉備を撃破しないと荊州を完全に征圧したとはいえません。劉琮の降伏で満足して北へ帰ったら、荊州は簡単に劉備に取り返されるでしょう。 しかも、曹操の大軍はほぼ無傷でしたからなおさらです。 劉備もそれは先刻承知なので、孫権と結び、それで結果的に曹操vs孫権、という形になっていったのです。 あくまで曹操の最初の標的は荊州であり、結果的に呉とも戦うことになったのです。 で、まあ、疫病なんてのは予想できませんし、赤壁の戦いは周瑜のファインプレイでした。 曹操だって負けるのわかってたらそりゃ、そんなことはしませんけどね・・・。 ちなみに、曹操は烏林から長江を渡河しようとして、そこを周瑜の火計で船団を焼き払われているようです。(赤壁の戦いの中身はじつはあまりわかってない) まあ曹操とて、苦手な水戦をしようなんて思ってません。長江を渡って陸戦で決着をつけたかったはずです。 赤壁での敗戦後、おっしゃるように、曹操も路線を変更して(劉備が荊州を得たこともあって)、益州攻略を目指します。 しかし、関中軍閥の馬超らは曹操が兵を西に向けるのを、自分たちが討たれるのでは、と疑って反乱。この反乱鎮圧に数年の歳月を必要としてしまいました。 その間に、劉備が益州を獲得します。劉備が益州を得るのと、曹操が漢中の張魯を降すのがほぼ同時期なので、ほんとに、ちょっとのタイミングで益州は劉備の手に落ちたのです。 劉備の益州攻略がもう少し遅れたら・・・馬超の反乱がなかったら・・・おっしゃるように曹操が益州を得て天下を統一していたでしょう。 まあ、河北平定までは曹操が天運を持ってましたけど、赤壁以降は天運が劉備に移ったかのように、曹操のやることなすことが裏目にでてしまいました。反対に劉備は以前の劉備がウソのように順調に勢力を拡大していきます。 いわゆる、流れが変わった、というヤツなんでしょうかねえ・・・。

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まず劉璋は曹操に対して敵対をしていません。 それにあなたはなぜ劉璋を攻撃出来たと思うのでしょうか? そもそも曹操には北には鮮卑という大きな敵がいますよね。 その対応は考えていないものだと思います。 曹操の目的は当初荊州の劉琮攻略です。 それを難なく攻略できた為、呉も降伏させられるのではと思いました。 蜀を攻略したところで兵糧も確保できる土地も無い。 選択があるとしたら呉とは戦わないで諦めるが最善だったかと。

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普通に考えたら絶壁の多い崖だらけの蜀より地形的に稲作などできる呉のほうが魅力あると思ってたかもしれません。劉備に敗れて悔し紛れの発言で鶏肋と言った発言ありましたが、あれは半分は本音でしょう。取れれば取る!くらいの考えだったかもしれません。仲達の進言にも光武帝の故事を使って退けたり。年齢以前にもう少し現実を直視したらどうかね?と伝えたかったのかもしれませんね。故郷にも近い、魏を脅かすのは孫権がいた呉だったかも。三国志演義は話がやや誇張してますから。 孫策がいたときに曹操はかなりヒヤッとしてますから。孫権のいた呉にかなり兵力を割いてますね。たまたま孫権は孫策みたいに攻め込んでこないで助かったところはありますけど。