仏典を書いた人は誰ですか? 釈尊は仏教の言葉を教えただけですね?

仏典を書いた人は誰ですか? 釈尊は仏教の言葉を教えただけですね?

宗教 | 中国史108閲覧

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ブッダが自分の教えを文字に書いて伝えた事実はなく、教えの伝承はその死後行われた第一結集と呼ばれる弟子達による編纂会議を起点としています。 その際にはブッダの従者として長年仕えていたアーナンダ尊者が自分が見聞きしたブッダの言動を証言し、他の弟子達が承認するという形で行われました。 そのため、仏教経典の統一的な形式として、経典の冒頭は「私はこのように聞いた(如是我聞)」というアーナンダ尊者の証言から始まっています。 従って、作者というのに近い存在がいるとすればアーナンダ尊者ということになります。作者というよりは証言者なわけですが。 (ただし、この場合の仏教経典とはパーリ仏典や阿含経といった初期仏教の経典を差し、大乗経典は含みません。) また、第一結集において編纂されたと言っても、最初から文字で書かれたのではなく最初期の数百年間に関しては口頭で伝えられました。 仏典のような膨大な情報量の文献が記憶を頼りに伝えられたというのは現代人には信じがたいことに思われますが、これは仏教に限ったことではなく、バラモン教の聖典ヴェーダも、ウパニシャッドも同様に口頭伝承で伝えられていたのです。 口頭伝承という形態が取られた背景には、ブッダの時代のインド社会にそもそも文字がなかったか、あっても非常に限られた範囲でしか使用されていなかったという事実があります。 実際、仏教に限らず、ブッダの在世年代に近い時代の文字資料は全く無いのです。 (先行するインダス文明にインダス文字というのがありますが、インダス文明とブッダが属するアーリヤ人社会には連続性はありません。) また、仏教の場合は、教え(法)を記憶すること(dhāraṇa)自体がひとつの実践的修行であるというようにも説かれていました。 例えばチャンキー経という経典には以下のような教えがあります。 「バーラドヴァージャよ、(法の)意義を考察するためには、法を記憶することが有益です。 もし、法を記憶しないのであれば、その意義を考察することはできないでしょう。 法を記憶するがゆえに、意義を考察できるのです。 それゆえ、意義の考察のためには法の記憶が有益なのです。」 (パーリ仏典中部 チャンキー経) こうした背景から、口頭伝承という形態が取られたわけですが、その伝承は現代の我々が想像するような伝言ゲーム的なものではなく、非常に組織的に管理されたものであったことが資料からわかっています。 パーリ仏典律蔵、及び注釈書によれば、第一結集時に教えは法(ダンマ)と、「律」(ヴィナヤ)に分けて編纂され、それぞれを専門的に記憶して伝持する職分が生まれました。 法を伝持する者は「誦法者(ダンマヴァーディン)」、律を伝持する者は「誦律者(ヴィナヤヴァーディン)」と呼ばれるようになったようです。 やがて「法」は「経」(スッタ)と呼ばれるようになり、伝持者たちも「経師(スッタニカ)」、「律師(ヴィナヤイカ)」と呼ばれるようになります。 さらに経師が、経文の暗記伝持を専らとする「誦出者 (バーナカ)」と、経文の語句解釈や教理の体系化につとめる「論説師(ダンマカーシカ)」に細分化したと言われています。 論説師の登場と部派仏教時代の到来によって、経・律に加え、「論」が整備されるようになりました。そこで論を記憶伝持することを専らとする「論師(アビダンミカ)」と呼ばれる職分も登場したようです。 この段階で、経蔵・律蔵・論蔵という三蔵(ティピタカ)が成立したものと考えられます。 ここまでが仏滅直後の第一結集から、仏滅後100年の第二結集、そしてアショーカ王の時代(紀元前3世紀頃)に行われたといわれる第三結集に到る口頭伝承の時代の流れです。 この時代を経て、テーラワーダの伝承では紀元前1世紀にスリランカのアルヴィハーラ石窟寺院にて行われたと伝えられる第四結集に到りますが、仏典が組織的に文字化されるようになったのはこの第四結集からと言われています。 このように、仏典は、第一結集によるアーナンダ尊者の証言が口頭伝承され、やがて書写されたものであり、誰かが書いたというものではないということになります。 もちろん、こうした経緯自体が仏教教団に伝承されたものですから、その信憑性に疑問を持つ学者も多くいます。 学者は事実を懐疑的に見るのが仕事なのでそれも当然ですが、忘れてはならない視点として、そもそも仏教教団の組織としての最重要な仕事は「教えの伝持」に他ならないということです。 ですので、誰かが勝手気ままに経典を創作したり、創作されたものが新しい経典として認められたりといったことは簡単には起きなかったはずだし、起きないように工夫されていたと考えるほうが合理的であるということです。

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その他の回答(8件)

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仏典と言っても、経・律・論の三種類があり、釈尊の言葉を書き留めたのは「経」だけです。「律」は規則集ですし、「論」は龍樹などの後世の学僧が書いた仏法に関する理論書です。

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「アーナンダよ 。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない 、 『教えを説かれた師はましまさぬ 。もはや、われらの師はおられないのだ 。』と 。 しかし、そのように見なしてはならない 。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが 、わたしの死後にお前たちの師となるのである 。」 —『ブッダ最後の旅-大パリニッバーナ経 (岩波文庫)』中村 元著 弟子が、釈迦が説いたことを忘れないために代々伝えていくのは当然のことですよね。 最初は記憶による伝承だったものを、最初に文字に書き記したのが誰なのかは、分かっていません。 今日に伝わっている経典が、歴史上の釈迦が説いたことと完全に一致しているのかということも分かっていません。 どれも完全にはイコールではないだろう、後世の加増があるだろう、と推察されています。もちろん、宗派においては、自分達が依拠している経典が釈迦の直説とイコールだと信じられているでしょうが。 どの経典に釈迦の直説が多く残っているか、どの部分が釈迦の直説か、どの経典が後世に創作されたものか、それを推察することしか出来ず、その推察には諸説があって統一を見ていない、というのが現状ですね。 それでも、学者の間で、ある程度の見解の一致を見ている部分はあるでしょうけど。

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それは謎に包まれています。 しかしアカデミックな世界の見解では 最古の仏典と思われているスッタニパータの最も古い部分ですら 釈尊の死後最低でも100年以上経った年代の作であることが ほぼ確定しているようです。

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ブッダの時代のインドでは、まだ文字が広く用いられていませんでしたので、ブッダの死後に弟子たちが集まって、互いが記憶している教えをまとめた(第一結集)ものを、しばらくは口承で伝えていました。 仏典に書き残されたのは、短く見積もってもそれから200年は後のことですが、その当時の仏典は今に伝わっておらず、現存する経典は、漢訳とパーリ語でもっとも古いものでも、紀元5世紀初頭ぐらいに書かれています。 ちなみに、経典を漢訳した人物としては西域出身の鳩摩羅什(クマラジーヴァ)、パーリ語の経典をまとめた人物としてはスリランカのブッダゴーサが有名です。 また、それより古いとされるのが、1990年代に入ってガンダーラ地方で見つかった写本ですが、これは1世紀から3世紀頃に書かれたもので、依然としてブッダの時代からは500年ほど隔たっています。書いた人物の名は伝わっていません。

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