大平洋戦争時のインパール作戦は、ビルマとインド国境の内陸部での進行作戦でしたが、

大平洋戦争時のインパール作戦は、ビルマとインド国境の内陸部での進行作戦でしたが、 沿岸部での海軍と協力した進行作戦などの立案がなされなかったのは何故ですか?こういう場面では、戦艦大和や武蔵の巨砲での沿岸敵陣攻撃は強力な援護射撃になったのではないですか?

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沿岸部を行くとなると海域を含めた広範囲の制空権を握る必要がありますが、日本軍にはそこまでの余裕がありませんでした。そのために緒戦でセイロン島攻略も計画されたんですが航空勢力の劣勢のため中止となりました。 いくら巨大戦艦といっても二隻では長大な大陸の沿岸線を制圧するのは無理です。孤立した島嶼を撃つのとは違うのです。その島嶼への砲撃もアメリカ軍は戦艦以下何十隻もの艦艇から数日間撃ちまくっても硫黄島やペリリュー島の日本軍を無力化できませんでした。 インパール作戦はそうした状況下での苦肉の策だったのです。そして、作戦が開始されなくても遠からず日本軍の戦線は崩壊していたでしょう。だからこそ上層部は作戦を認めたのです。

日本軍の破竹の勢いと聞いた事がありましたが、最前線では当初から拮抗状態だったのですね。苦肉の策というのは、このままではジリジリ後退してしまうといった焦りのようなものだったのですね。なるほどですね。有難うございました。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

分かり易く、有難うございました。他の方達も、有難うございました。

お礼日時:9/28 9:02

その他の回答(2件)

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制海権などの話があってそこに大和などが 行けないという話は置いておいて 仮に援護射撃ができたしてもインパール地方は 山が多いので観測などが上手くいかず 力になれない可能性が高いかと

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インパール作戦の目的は、インド攻略ではありません。そんな力は当時の日本軍には、全くありませんでした。それに航空兵力も南方戦線にほとんど引き抜かれていたので、戦艦大和や武蔵が出撃しても、英空軍の餌食になるだけです。 インパール作戦の目的は、英米の最後の援蒋ルート(インドからアッサム地方の中心都市インパールをへて中国重慶に至るルート)を遮断して、中華民国を降伏に追い込むことでした。 蛇足 この作戦は、大本営が二十一号作戦として命じたものですが、現地責任者の牟田口廉也中将が、補給の困難さを強く主張して保留になりました。 その後、南方の戦況が悪化するとともに牟田口廉也中将は、保留されていたインパール作戦の実施を主張するようになりました。その理由は、悪化した戦局を大転換するには、命がけの賭けが必要と考えたからとされます。 インパール作戦に失敗した牟田口廉也中将は、最悪の愚将とされますが、太平洋戦争を始めた東條英機らなんかよりは、はるかに優れた軍人でした。

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牟田口中将は、補給の困難さから当初はインパール作戦には反対の立場だったのですね。それを敢えて決行して、予測通りに失敗したということですね。万に一つの可能性に賭けたということですが、・・・なんと言って良いのか、言葉に詰まりますね。特攻隊とか、どうしようもなくなって無謀な事をする、といった・・・。