卑弥呼は海の向こうに魏が在ることをどうやって知ったんですか? 民間交流が盛んだったんですか?

卑弥呼は海の向こうに魏が在ることをどうやって知ったんですか? 民間交流が盛んだったんですか? 金印を用いた朝貢はどのくらいの期間続いたんですか? 途中で船が沈んだりしたらそれをどうやって知りえたんですか? 「帰ってこない・・・行きで沈んだんか帰りで沈んだんかどっちだ?」はどうやって判断したんですか? もしかしたら金印をもって帰る途中に沈んだ可能性もあるかもですか?

補足

(初めて金印を持って帰る途中に沈んだ可能性は?)

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「邪馬台国時代の卑弥呼」は、「古い時代の百済」から鉄鉱山の採掘と引き換えに、帯方郡の南下阻止のための軍隊を派遣する外交交渉をしていて、半島に高級指揮官を伴って軍隊を派遣しています。 こんな関係で、半島諸国情勢や中国情報にも精通しているのです。

補足について。 魏の明帝は「詔書」を発して「金印紫綬」を与えています。 正始元年に、帯方太守の弓遵等に詔書と印綬を持たせて倭国に派遣させ、倭王(卑弥呼)に拝謁してこれらを授けた。と魏志倭人伝に記述があり、また、倭王(卑弥呼)は、上表文を作成して詔恩に謝意を表した。との記述がありますので、金印は間違いなく届きましたよ!

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倭人は朝鮮半島に出掛けて鉄を手に入れてました。 朝鮮半島東北部は公孫淵の燕が魏・呉・蜀から半ば独立し第四勢力として存在してたのでそこから大陸の情報を得ていたのでしょう。魏に燕が滅ぼされた翌年に魏に卑弥呼が使節を送ってるので偶然ではありません。 船が沈んだかは魏側の記録しかありませんが、特に書かれてません。 卑弥呼が初めて使いを出したのが238年。次の代の台与が魏の後継国・晋に使いを出したのが266年なので約30年弱国交があった事になります。 金印は贈り物や書を包んだものの上に封土と言うものに押す為のもので有って海上を行き来するものではありません。 但し、仮受と言って本来なら貸し与えるものなので原則使われなくなれば返すのが決まりですが、どうなったかは記録に残らず、現物も未だ発見されてません。