桶狭間の合戦の後、信長はどうして三河を攻略しなかったのでしょうか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

詳しい説明ありがとうございました。

お礼日時:10/27 0:52

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まず 美濃と三河の二正面作戦は国力的に無理です 尾張を完全に掌握していてもです 桶狭間の戦い前に信長は尾張を統一したといわれますが、東部を今川に抑えられていた以外にも、まだ完全に服従していない勢力を抱えていたわけです 桶狭間の信長軍が「二千」即戦のための直属軍のしかも戦闘余韻のみだったとしても、総動員兵力でも五~八千程度だったのではないでしょうか? ならば、まずは尾張を固めるのが優先となります それでも本能寺の変の後の三河が無主地の甲斐信濃のごとくであったら、接収したでしょう しかし、西三河は今川から事実上独立した松平元康が旧領を回復し、容易に手を出せない勢力となっていました 現に織田軍も三河に侵攻してますが、全軍を投入できないのは上記の理由もあるにせよ、 松平勢との小競合いはほぼ一進一退 加茂郡西部の矢作川以西のみは確保したものの、西三河はむしろ松平氏の支配が固まって行く流れでした また、信長は後進地の三河よりも、肥沃な美濃とその先の京都の方に関心があったのでしょう ならばこれまでの対戦でも手強さを見せていた松平とは手を結んで、美濃攻略に注力した方がよいと考えるもは自然だと思います

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合戦で深追い、するのは愚者の成せる 業です。もちろん今川の陣営は織田が 深追い、してきたら倍返し、でヤッツ けるような備え、無かったかもしれ ないが織田信長は父親の織田信秀が 斎藤道三との合戦や雪斎が率いた 今川軍との合戦で織田が深追い、した ためにヤラれた経歴よく知っていた ので今川義元を討ち尾張の失地を 回復したことで合戦を終わらせた のでしょう。

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桶狭間の戦いは信長にとって防衛戦争だったと思います。義元の首を奪って今川軍が撤退さえすればそれで十分でした。 それを深追いすれば自軍の兵力が足らず、返り討ちになる恐れもあります。 義元が死んでも今川軍の残存勢力は馬鹿にできません。 桶狭間の勝利は地元なので地理を熟知していたのが勝因です。欲を出して未知の地である三河まで進出することは防衛戦争の戦略外です。信長はリスク回避に長けた武将ですから火中の栗をわざわざ拾うことはありません。 やはり家康を基準させ彼に三河を任せる方が最善です。

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余力はなかったでしょう、今川の精鋭部隊ま健在でした。 もし支城を落とした精鋭部隊とぶつかれば勝てる自信が持てなかったようです。

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三河より美濃が欲しかった、という事でしょう。 三河は30万石程度の石高なのに、美濃は50万石です。 美濃が盤石な体制なら、簡単に攻略は出来ませんが、 斎藤道三・義龍父子の対立後、国内の動揺は、 完全に収まってはいません。 父の信秀は、三河と美濃の東西二正面作戦を展開した結果、 虻蜂取らずの失敗に陥ったので、どちらかを選択するなら、 美濃を取るほうが賢明な選択だったという事でしょう。