夏目漱石の『こころ』の作品での質問です。 この作品のなかで唯一「静」だけ名前が出されていますが、その意図はなんですか?

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ベストアンサー

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答ありがとうございます!自分の考えの中で1番納得がいったのでベストアンサーにさせていただきます。 中でもう一人実名が出ていたことは見逃しておりました。ご指摘ありがとうございます。 深い意味がないという考えがあること、静子はありふれた名前であったことは考えてもいませんでした。ありがとうございました!

お礼日時:2020/10/31 19:39

その他の回答(2件)

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「こころ」は乃木希典の死に影響を受けて書かれた作品だと言われています そのため先生は自殺をし、その妻を静という、明らかにモデルがその二人だと言わんばかりの内容です 夫が妻を呼ぶのに名前を出す事自体はさほど不自然ではありませんが、漱石や「私」はここを「おい、静」ではなく単に「おい」とだけにして伏せておくことも可能だったはずです それをしなかったのは、モデルをわかりやすく示す為だったのではないかと思います 面白い着眼点でもなんでもなく、ただ影響を受けているのです 「独立と模倣」という文でも乃木希典について述べていますし、親交があった森鴎外も影響を受けていますから、明白です

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「先生と私」では先生の死から何年か経過した時点での「私」の回想で始まっています。それは大正何年かせんさくする必要はありませんが、少なくとも先生は明治の人です。その頃は今よりもっと一家の主人(夫)には威厳があり、奥さんは名前をそのまま(呼び捨て)呼ぶのが一般でした。文中に先生が奥さんをおーい静、とか、なあ静と呼ぶ場面があったかもしれません。それは夫が妻を呼ぶとき自然な会話です(妻はあなた、まれに上流では殿様)。つまり先生の家にたびたび遊びに行くようになった学生の「私」が、仲睦まじい普通の夫婦として先生の家庭を見ているわけですから、静さんの名前も自然に書かれているのでしょう。 対して、「私」と、こころの最重要人物である「先生」は、名前があってはなりません。Kが本名で書かれなかったように、語り手かつ聞き手の「私」は、どこまでも「私」であり、 「先生」は、語り手の「私」にとって、永久にその呼び方で呼ばれる存在、「先生」以外の何者でもない。 それが「こころ」という小説であり、本名で記述をしなかった理由は「こころ」冒頭にあります。 読者としては、それで十分だと受け止めるしかありません。