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2020/11/15 20:56

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麒麟がくる

雑談 | 日本史495閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25

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ドラマ的には朝倉が金を渡す代わりに協力して欲しいみたいな感じでした

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北陸・山陰から日本海・琵琶湖は一大交易網で繋がっていました。 重い米などの物資は可能な限り船を使いました。当時、山陰・北陸日本海の物資が琵琶湖北部の今津・海津・塩津へ集められ、坂本に船で運ばれ、京へとたどり着きました。もちろんその逆もあります。 東国の物資は、米原・朝妻などに集められ坂本に送られました。坂本では、馬を使って都に物資を運ぶ運送業「馬借」が一大勢力をなしていました。中世以来琵琶湖は全国の産物の1/5から2/5が集まる一大流通網の要でした。その利権を延暦寺とその傘下日吉神社が得ていました。 北近江の浅井氏も同様です。さらに北陸の荷物輸送や船輸送は、白山神社と朝倉氏が利権を持っていました。白山神社も延暦寺傘下です。 このように既得権益で延暦寺と朝倉・浅井は繋がっていました。同盟のあるなしにかかわらず、経済的に混乱することをまず嫌っていたのです。近年の発掘成果でもわかるように、信長の叡山焼き討ちは、有力な軍事力でもあった馬借の本拠地日吉神社の方が殲滅的に行われていたようです。 平泉寺白山神社は、延暦寺傘下。その衆徒の家族が朝倉と姻戚関係や家臣として城下町に暮らしていました。多くの僧兵が集まる僧坊が並び、朝倉と並ぶ支配力と軍事力を有していました。浅井氏救援には、この平泉寺白山神社からも出兵しています。姉川の合戦以前から延暦寺は浅井・朝倉と同一歩調だったのです。

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Q「麒麟がくる なぜ比叡山は、朝倉義景と浅井長政をかくまうのですか?」 ①当初は「比叡山延暦寺」は元「興福寺」の出身である将軍「足利義昭」が嫌いだったのだと推察します。 まず、よく「織田信長VS朝倉義景」とされ、その増援に「徳川家康」が来たとされますが、史料上では足利義昭が将軍として「朝倉征伐」を諸大名に呼びかけ徳川家康はそれに呼応しており、信長は逆に家康に「援軍はけっこう」とまで書簡で書き記しています。 つまり「将軍・足利義昭(義昭&織田&徳川)VS反将軍連合」という様相の中で長年の大敵である興福寺出自の義昭を良く思わない延暦寺としては「いっちょ朝倉&浅井を助けたる!」となったと推察できるかと思います。 後には義昭と共に織田信長を共通の敵としていますが、この段階では将軍・義昭のことが嫌いだったと見ます。 ②延暦寺は近江の寺社への影響力が強く、近江で下克上を為し戦国大名となった「浅井氏」を応援した。 延暦寺は元々「強訴」などで将軍家とも揉めていましたし、近江の「京極氏」やその家臣であった「朽木氏」とも揉めています。 そういった状況の中でその「京極氏」などに下克上をかまして近江の顔役となった浅井家は「将軍・京極氏」などと対抗してくれる武家に見えたいたと推察します。 逆に、この戦いの中で京極氏は義昭に付きましたし、朽木氏は信長を良く助けてもいます。こういった「義昭(興福寺出自)&京極&朽木&織田&徳川」と「朝倉&浅井&延暦寺」といった勢力図があったと見ます。

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ドラマでは、積極的に匿ったようになっていますが、 実態は貰い事故みたいなものです。 志賀の陣と呼ばれた、浅井朝倉軍と織田軍の抗争で、 朝倉軍は湖西地方の織田軍の拠点、宇佐山城を攻め、 信長の弟信治と重臣の森可成を討ち取り、 落城寸前まで追い込みます。 しかし、摂津に出陣して、本願寺と交戦していた信長が、 急きょ本願寺と講和して、宇佐山城救援に駆けつけると、 朝倉軍は動揺して、宇佐山城と隣接した、 比叡山に逃げ込んできたのです。 比叡山としては、むげに追い返すわけにもいかず、 山麓に朝倉の陣地を作る事を許したのです。