松永久秀は 筒井順慶とバッタリ会って 何で義昭に

日本史 | 歴史319閲覧

ベストアンサー

0

その他の回答(3件)

2

久秀を演じる吉田鋼太郎さん、の 怒る演技を面前で見てニラメッコ しているも同然である光秀役の 長谷川さん、は失笑してしまい 撮影で何度もNGだして大変 だったろうと思います。 長谷川さん、には拷問も同然だが、 そういうときに限って鋼太郎さん、 は究極の変顔で熱演されるから。 NHKは民放みたい番組のNG集 なんて放送しないのが残念。

2人がナイス!しています

0

説明が長くなりますが、背景を書きますのでお付き合い下さい。 ①永禄一(1558)年頃から、三好長慶の下で松永久秀が力を延ばし、翌二(1559)年八月、大和国信貴山城を修築してここを拠点として大和支配に乗り出しました。 同六(1563)年より久秀は多武峯を攻撃、大和衆の多くは久秀に従いますが、その中で順慶の父:順政が、同七(1564)年三月五日に没し、跡を継いだのが少年の順慶でした。 同八(1565)年十一月十八日には居城:筒井城を落とされ、布施に逃げています。 そして、松永軍と所々で戦い、筒井城を取り戻したのは翌九(1566)年六月八日のことです。 織田信長が足利義昭を供奉しての上洛は、失敗しましたが永禄九(1566)年八月にもありました。 この時は、上洛開始の日付は八月二十二日と決まっていました。 その時のもの考えられる2通の書状があります。 1通は八月二十一日付柳生宗厳宛織田信長書状(『柳生文書』)、もう1通が八月二十八日付柳生宗厳宛佐久間信盛書状となります。 前者の書状に「松少(久秀)」と書かれ、後者の書状には「久秀」とハッキリと書かれていて、この頃から久秀が信長と通じていたということが分かります。 永禄十一(1568)年九月三日、久秀の多聞山城は三好康長・順慶の兵に攻められましたが、二十六日に信長が義昭を奉じて上洛すると、久秀はいち早く人質を出し、名物の茶道具「つくもかみ」を進上しました。 大河ドラマ「麒麟がくる」の該当場面は、元亀二(1571)年九月十二日の比叡山延暦寺焼き討ちの後となります。 当然ながら、信長と義昭は久秀が順慶と戦っていることは知っています。 そして、それは義昭が「久秀と順慶の和睦」を願ってではなく、今後は大和国では順慶を用いて、久秀を排除するという意味になります。 史実でも、この頃から久秀は信長・義昭とは別れ、武田信玄と通じるようになります。 ②片岡鶴太郎が演じる「摂津晴門」が旧態依然とした古い権威にしがみついて新しい光秀が考える幕府にはそぐわないと感じたからです。 将軍と言っても、義昭には光秀などの家臣に与える所領がありません。 その為、寺社領や公家領などを勝手に与えていたようで、所領を押領(横領)したと訴えられています。 それらの中には、諏訪晴長・三淵藤英・和田惟政・細川藤孝・明智光秀がいます。 ドラマの中では、その背後に居て甘い汁を吸っていたのが「摂津晴門」です。 訴えられたのは史実ですから、この辺りは上手く史実と創作を絡めています。