天道溯原の第三章の頭の部分になります。
天道溯原の第三章の頭の部分になります。 日本語訳がわかる方いましたら、教えていただきたいです。よろしくお願いします! 少し多くなってしまい申し訳ございません。よろしくお願いします!
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嘗て考えた。人間であって、父母の生んだのではない人はいない。最も上代の祖先も、やはり父母であったはずである。父母について、その究極の始原の時を考えると、果たして人類の第一世とは、誰の生んだところに係るのか。そして言う、初代の人とは、きっと父母が生んだものではなく、それは主宰の神の生んだものだ、と。禽獣草木も亦た、そうである。そもそも禽獣には多くの種類があり、草木にも、大元となる種類があった。試みに問う、その種を創り、種の大元を立てた者は、これは誰であるか? 或いは言う、万物は世界に充満しているが、太古の時は、ひょっとして、或いは、そのようではなかったのではないか?物を生じる働きは、今まで僅かの間も止んだことがない。そこで衰微する種があっても、相継ぎ、また興隆してくるために,種の始終を弁別することができないのではないか? これを(たとえて)言ってみよう。人が大洋の中に在り、海の岸辺は杳として遠く見えない。すると、その人は、海には岸辺がないと言うだろう。鎖が掛かっていて、その端をまだ見ないうちは、鎖には首(はじめ)がないと言うだろう。どうして知ることができようか?海の岸辺が見えないのは、目の視力が、まだ及ばないからであり、鎖の首(はじめ)が見えないのは、鎖が非常に長いからである。もし生物における、究極の始原を推察できないなら、やはり生物の成り立ちを明察する者ということができるだろうか?(できない)試みに、輪をつなげて鎖を作る所を見よ。最も末尾の輪は、必ず次の輪につながっている。これを首(始め)までたどれば、其の輪は、かならず繋ぐための拠り所がある。鎖を掛けるのに柱がないことはない、これは甚だ明らかなことだ。まして鎖がますます長ければ、その繋ぎ留める枢(かなめ)は、必ずますます堅固である。つまり人の世が愈々長く続いてきたのは、必ず枢(かなめ)として全能の主を得て、それにより人が生じたからからであることも、愈々明らかである。どうして始原がないということができよう。そもそも人が地上に生まれて、蒸々と人口が増え、日々盛んになった。そして、今より昔に遡り、孫から祖先を遡ること、遠くなればなるほど、人口は希少だったはずである。これによって推論するなら、厳然として、人類に初代という存在がなかっただろうか?(あったはずだ)そして鳥獣草木の発生し栄え滋養成長していくことが、日々に盛んであるのは、始めの発端となる種類が有ったことは明らかである。或いは言う。
質問者からのお礼コメント
ご回答ありがとうございます! 今回少し多くなってしまい申し訳ございませんでした。
お礼日時:2020/11/26 13:58