武田勝頼は、真田昌幸に岩櫃城に逃げてこいと提案されていたらしいですが、当時の状況で岩櫃にいけたのでしょうか。

補足

新府城を燃やしてから岩櫃を目指しても、織田信忠軍に捕まってしまうのでしょうか。海野口などの情勢もわからないので、すでに織田軍に投降している可能性が高かったのでしょうか。 本拠地が甲斐なので、他国へと逃げる選択は難しかったのでしょうか。

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お礼日時:1/4 21:43

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実際に、真田昌幸は、人質だった家族共々、 逃げ帰る事が出来たのだから、不可能ではないでしょう。 従兄の武田信豊も、新府城から小諸城に移って、 再起を試みています。 だから、東信濃方面は、比較的安全だったのだと思われます。

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真田昌幸は勝頼公の重臣ですから、領国の岩櫃城への避難を 勧めますが、甲斐の国守が領国を捨てて他国へ逃げるわけに も行きません。 また当時の状況から、家来や家族を伴い岩櫃への行軍は不可 能でしたから、岩殿城への避難しか選択の余地はありません でした。