武田勝頼は、真田昌幸に岩櫃城に逃げてこいと提案されていたらしいですが、当時の状況で岩櫃にいけたのでしょうか。
武田勝頼は、真田昌幸に岩櫃城に逃げてこいと提案されていたらしいですが、当時の状況で岩櫃にいけたのでしょうか。 真田の岩櫃か小山田の岩殿か。岩殿城を目指すことになるらしいのですが、真田の岩櫃へは単純に織田の軍勢が迫っていて行けないという判断だったのでしょうか。 新府城を燃やしてからでも、141号線を使って岩櫃まで行こうともえば行けたのでしょうか。 岩櫃に行くならば、諏訪から逃げる時点で岩櫃に行かないと無理でしょうか。
新府城を燃やしてから岩櫃を目指しても、織田信忠軍に捕まってしまうのでしょうか。海野口などの情勢もわからないので、すでに織田軍に投降している可能性が高かったのでしょうか。 本拠地が甲斐なので、他国へと逃げる選択は難しかったのでしょうか。
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ベストアンサー
岩櫃か岩殿か、という話は甲陽軍鑑にしか出てこないのですよね。ここで長坂釣閑斎が「真田は父一徳斎からまだ三代しか過ぎぬ国衆なので信用出来ない」みたいな話をします。しかし、郡内小山田氏も四代前の小山田弥太郎が油川信恵と連携して武田信虎に反抗、戦死してるんですよね。三代も四代も変わらないと思いますし、どちらかと言うと郡内小山田氏の方が油断ならない相手だと思います。 古株かつ譜代家臣の釣閑斎がその事を知らないはずがありませんから、この逸話は後世の創作ではないかと思います。 岩櫃へ行けたかどうかですが、不可能だったと思います。 女性など非戦闘員も連れていた勝頼一行は郡内に辿り着くにも一苦労でした。岩櫃城にいくならより大変な道程になりますし、既に織田信房らの軍勢が上野に向かっていました。
質問者からのお礼コメント
ありがとうございます。
お礼日時:1/4 21:43