頼朝は、初めから義経を利用するだけ利用して、用済みになったら始末しようと考えてた節があると思いませんか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

同感です。

お礼日時:1/20 22:40

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壇ノ浦の戦いで敵を追い込み過ぎてしまい、安徳天皇と三種の神器を失ってしまったんだから頼朝が激怒するのも当然ですよ。両方を奪取して頼朝の庇護下におけば日本全土の統治権はすんなり獲得できたのに、根っからの軍人の義経にはそういう大局の流れが見えなかったんでしょう。だから切り捨てられて当然です。

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初めから、ではないと思います。 ただ、確かに無断任官問題は義経排除の理由の一つであって、これだけが理由で義経が排除されたわけではないでしょう。 最初の頃(頼朝の旗揚げ直後)はかなり関東の武士に頼朝が気を遣っていて、上洛のチャンスがあっても「それより関東!」と止められていたりします(吾妻鏡など)ので、この時点での義経の加入はかなり心強かったと思います。 何しろ、純粋に頼朝の言うことを聞いてくれる武士団なんて頼朝の手にはありませんから。 京都へ送れる自分の代官なんて、義経くらいしかいなかったと思います。 しかしその後、一の谷合戦などを経て平家に対するパワーバランスが優位になると(義経のお陰ですが)、単なる従順な手ごま以上の存在感を持つ義経が頼朝の脅威になってきたのではないでしょうか。 義経は政治感覚がないというより、朝廷を敬い、平家打倒の純粋な先陣となるなど、価値観として自分の保身や悪賢さがありません。 後年の義経の持つ特性としては、 ・平家を一方的に滅ぼす能力を持つ将軍 ・鎌倉の脅威である奥州藤原氏と関係が深い ・朝廷からの信頼が厚い ・治安維持した京で人気がある ・頼朝の知恵袋である大江広元、梶原景時から危険視されている ・手柄を立てられなかった関東武士からよく思われていない(これは本人らの自業自得でもありますが) ・頼朝から義経へ血筋的権力の移行があると幕府内に不満が出る などなど、鎌倉にとって危険なものばかりです。 これでは政治感覚云々などただの後付けで、頼朝にしてみれば、平家打倒後の義経は排除すべき勢力でしかなかったことでしょう。 生かしておくだけでも、何が起きるか分かりません。兄弟であることが、絆以上に、自分に成り代われる存在としての危険さとして作用してしまいます。 安徳天皇を取り返そうが、三種の神器を取り戻そうが、遅かれ早かれ義経は鎌倉に殺されていたと思います。

一部、誤解されそうな解答がありましたので少し。 ・義経が検非違使に任官した時、特に頼朝が怒った形跡は史料(吾妻鏡)には見られません。怒ったのは伊予守への就任、そして検非違使との兼任の時です。 ・屋島の戦いの時は義経と梶原景時は別行動していますので、二人が喧嘩したとかは平家物語の中のお話しです。 ・壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水したのは平家側のせめてもの抵抗の無理心中ですし、範頼が九州を固めている以上、平家は陸へ上がる気はなかったでしょう。義経には止めようがありません。 ・三種の神器については、当時朝廷トップの九条兼実が「剣が消失したのは大変残念だが仕方ない」としています。 ・腰越状は内容の不自然さから、後年の創作(鎌倉による)ではないかという見方が有力です。五位の検非違使ごときが一族の誉れにはなりませんし。 個人の感想はともかく、記録上は上記の通りです。

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いや、そうではないです。 当初は頼朝が関東を支配し、西は義経、その間を範頼に任せようと考えていたようです。 しかし蓋を開けてみると、範頼はそれ程出来る人物ではなかった、そして義経は、KYな奴だったからです。 そもそも義経の行動は御家人の和を乱す行為ですし、日本人としての常識外れです。 まず頼朝は、今まで朝廷の犬としてしか扱われていなかった武士の地位を高めるために、東国武士達から棟梁に担ぎ出されたのです。別に平家を滅ぼす事が目的ではなかったのです。 平家が天皇と親戚関係を結び、権力を独占していた事に反発して、東国武士が頼朝を棟梁に担ぎ出して、旗挙げをしました。 そこで富士川の戦いの翌日に、義経が馳せ参じ、黄瀬川で涙の対面をします。 しかしあれは創作のような気がしてなりません。 当時の異母兄弟は、お互いにロクに会った事がありません。現代の三浦泰年、三浦知良兄弟のような仲良し兄弟とはなりません。お互いに幼児期に1、2回程しか会った事が無ければ、相手の顔も覚えていません。 一の谷の戦いの後、後白河法皇から検非違使の位を与えられ、昇殿まで許された。これが頼朝の承認無しとあれば、誰だって怒ります。仮に私が社長だったとして、部下が私の承認無しに取引先の代表取締役の地位を与えられたとあれば、当然警戒します。そして東国武士達は、「義経は結局はやってる事は平清盛と変わらない。朝廷の犬になったのか。」と失望します。 屋島の戦いでも、梶原景時と喧嘩して、勝手に出陣しました。これも御家人の和を乱す行為です。 壇ノ浦の戦いでは、安徳天皇を入水させ、三種の神器奪回に失敗しました。これこそ、日本人としての常識が無いと言われる所以です。 平家と和平交渉をした上で安徳天皇の身柄を確保し、三種の神器を奪回し、新天皇に渡さなければ、新天皇は正式な天皇として認められません。武力で安徳天皇を殺したとあれば、項羽と同じで「覇王」にしかなりません。 そして腰越状の内容を読んでみると分かりますが、自身の手柄を認めない事への愚痴を書いた上で、頼朝への反逆心が無い事を謳っています。そして「検非違使に任じられた事は源氏としての誉れではないか?」という事も書いてあります。 逆に無断任官や安徳天皇の身柄確保失敗、三種の神器奪回失敗を謝罪する事は何一つ書いてありません。最後まで、自分がした事を分かっていませんでした。 確かに梶原景時は讒言をしたネチネチした奴です。しかし実際は、大半の東国武士は義経に対して怒っていました。義経の部下でもないのに、勝手に指図を出したり、屋島の戦いで勝手に船を出させたり、と越権行為の度が大き過ぎました。 だからこそ、頼朝は初めから義経を利用するだけ利用して、用が無くなったら処分するつもりはなかったと思います。

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源氏の同族争いの血塗られた歴史は、頼朝世代に始まったことではなかったので最初から警戒していたことでしょう。 譜代の家臣がほとんどいない頼朝は、貴種であるがゆえに関東の御家人から担がれていました。同じ流れを汲む弟たちは要警戒で、特に実力と声望が挙がれば、即ライバルとなります。 義経の兄阿野全成は、同母でより義経と縁が深かかったと言えます。彼は政子の妹と結婚し頼朝在世を生き延びています。 ただ終末は、北条側につき2代頼家によって粛清されました。

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義経が範頼のように頼朝の命令に従っていれば殺されませんでした。