石田三成は豊臣家への忠誠心が厚い人物だったと見るべきではないでしょうか? ///////////////////////////////////////////////////////////////////////

日本史 | 読書103閲覧

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是非、その史料を教えて下さい!! 関ヶ原の戦い前後の武将の多くは三成を批判してばかりで嫌でした!!その史料をお待ちしています! >ついでに豊臣家への忠誠というと、毛利勝信、勝永、勝家の三人も忘れられませんね。 毛利勝信は関ケ原の戦いでは西軍になったのですが、何故か朝鮮の役で三成を訴えているんですよね・・・。その讒言が無ければ三成の蟄居や隠居も無いのでなんとも言えない気持ちになります。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答ありがとうございます。 史料が無くとも、石田三成の忠義心はゆるぎないと見るべきと思います。よく史料、史料とうるさく言われる方が居ますが「心」が無いと思います。

お礼日時:1/23 20:42

その他の回答(5件)

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石田氏は元は近江源氏浅井氏家臣。 近江石田家臣の多くは旧浅井家臣 淀君は浅井長政娘。秀頼は浅井長政の孫。

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真相は闇の中です。 三成関連の古文書もほぼないですから、彼がどういう人物であったかはわかりません。 ただ、劣勢の中豊臣家を守る為にはどうすればいいか、その中で彼が導き出したのが関ヶ原の合戦になります。 領地を減らしても豊臣を存続させると言う事ができなかったのは彼のせいだけではありませんが、関ヶ原の合戦を機に豊臣が、消えたということから忠誠心では語れない顛末と言えるのではないか。

>三成関連の古文書もほぼないですから、 とても豊富に残っていると思うのですが?無いと思われるのはなぜでしょうか? またこの質問文の誓書の内容はどう思われます?

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石田三成は豊臣家に対する「忠誠心」は、おそらく当時の多くの武将たちの中では一番だってでしょうね。 だから、 家康に勝負を挑んだ。 しかし家康のほうが「政治力」「策略」などは、数段上だった。 石田三成は、秀吉はもちろん、淀君とその子供の秀頼のみだったようですね。 秀次を殺さなければ、場合によっては、歴史も少しは変わっていたかもしれない。 「視野」が秀吉・秀頼のみだったことが、逆に災いしたのかもしれませんね。

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ありがとうございます。 秀頼の意向より奉行衆の意向を上とする契約書に問題とする方が居ますが、そもそも忠義心の熱い三成が交わした契約書なので、そういった心配はないはずなのに、問題提起する歴史家がおかしいですよね。

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>政治のいろはを知らない子供より奉行衆の三成が政治の指揮を取るのはあたりまえ なら、現に政務を執っていた家康に奉行衆が従うのがあたりまえ、ですよね

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この内容で「三成は忠臣!」と言えるのだとすれば、それは新興宗教にでもはまった信者でしょうね。 最近になって見つかり取り沙汰されている史料なので「三成忠臣説」にこだわらず史料と見き合うべきでは?

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よくそんな史料にも無いネットなどでしか見かけないことを言えますね? 三成が豊臣家に対して忠義を尽くしていたことは明白です。三成が豊臣家に反したと言う史料があるならば提示してください。