武田信玄も上杉謙信も自分が死んだ後の事を考えてなかったのですか? 信長は信忠にキチンと家督を譲ってましたけど 無責任ですよね

日本史71閲覧

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勝頼代官説は創作です。そもそも1567年に嫡男の義信が死んだ時点で、後継者になれるのが勝頼しかいません。それから信玄が死ぬまで6年の歳月がありましたから、準備不足ということもないでしょうし、信玄の死後に勝頼は内外に当主になったことを宣言し、家臣たちから異論も出ていないので代理の当主ということもないでしょう。そもそも、1575年の長篠の戦いで武田家の重臣たちは勝頼を戦場から逃がすために命を懸けて奮戦して戦死しています。当主と認めていなかったらそこまで忠誠心を示さないと思います。 上杉謙信に関しては何にも考えてませんね。北条氏康の7男である北条三郎を生かしておいたら、後継者問題でもめるのは当たり前です。

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武田信玄は四男の勝頼を正式な後継者に指名しないから、奸臣の穴山梅雪が勝頼の言う事を聞かなくなり結局武田家は内部分裂で滅びました~・・・ 。これは、はっきりと勝頼を後継者に指名しなかった武田信玄が悪いですっ❗ 。又、廃嫡した元後継者の長男の義信も四男の勝頼もどっちも人望がなかったのも武田家にとっては、悲劇ですねぇ~・・・ 。今川義元の長男氏真・武田信玄の長男義信と四男勝頼の兄弟・北条氏康の後継者の氏政はこいつ等揃いも揃って全員バカ息子の後継者ですっ❗ 。武田家が滅ぶのは、当り前ですっ❗ 。以上です。

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武田信玄は嫡男義信切腹の後、正式に勝頼というより勝頼の子(信勝)を後継とし、成人するまで暫定的に勝頼が当主を代行するという形で後継人事を行いました。 上杉謙信は自分が毘沙門天の生まれ変わりと称して不犯を貫いてます。 従って嫡男はいません。 しかし、叔父長尾政景の子景勝、北条氏康の9男景虎を養子としており、この2人のどちらかを後継者にする予定だったと思います。 2人とも取りあえず何も考えていなかったわけではないですが、きちんと家督を相続させたとは言い難いですね。

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武田信玄は、元亀二年には勝頼父子を甲府に迎えており、後継者問題についてケリをつけています。ですから、信玄が客死して後の家督継承についてトラブルは起きませんでした。 この点、上杉謙信は迂闊の誹りを免れないでしょう。もっとも謙信は戦国大名としては癖の強い、変わった人間でした。普通の大名なら最も気にするはずの後継問題にも無頓着だったのでしょう。