上杉謙信については、私はそれほど詳しくないので、後発の回答者様にお任せし、武田信玄の場合に限って回答します。
武田信玄の場合は、不測の事態が重なったことと、それにより後継者の準備期間が短くなってしまったため、後継者問題がごたついたと思います。
不測の事態①
本来の後継者である武田義信の死
武田信玄の後継者は、そもそも武田義信でしたが、信玄とは外交路線の違いから対立します。
そして義信が謀反を計画したため、信玄は義信を軟禁し、結果的に死に追いやります。
そのため、信玄の4男で諏訪家を継いでいた諏訪勝頼が、後継者となりました。
不測の事態②
将軍である足利義昭が認めなかった。
信玄は勝頼を後継者として内外にアピールするため、正式な官位と、将軍である足利義昭から名前の一字を貰おうとお願いします。
この頃は、偉い人から名前を貰うことは名誉な事で、勝頼も甲斐の名門である武田の後継者としての地位向上のため、一字を貰う必要がありました。
ちなみに武田信玄(本名は晴信)は足利義晴から。
武田義信は、足利義輝から。
上杉謙信(本名は輝虎)は、足利義輝から。
この他にも、朝倉義景、大内義隆、今川義元など名門の大名は、将軍から一字を貰うのが習慣です。
しかし、信玄が申請したのに、足利義昭は断ります。
このため、勝頼は足利将軍家から認められていない男となり、信玄による勝頼の地位向上は失敗しました。
●準備期間が短い。
それでも信玄は、義信が生きている頃から勝頼を重用し、勝頼を義信に次ぐ武田家のNo.3としました。
そして、義信が死んだ後も実質的な後継者として扱います。
しかし、その期間は義信の死から信玄の死までの五年程度と短く、権力の移譲には至りませんでした。
●結果
これらの結果、勝頼は一時的とはいえ他の家を継いでいた出戻り当主となり、しかも官位も、将軍からの名も無い、中途半端な状態となりました。
それでも、勝頼は武田家の当主としての権限を行使しております。また、武田一族や古くからの家臣たちに反乱などの大きな動揺は起きていません。
信玄としては、勝頼が代打の後継者として困らないよう、少ない時間で出来る限りのことはしたものと思います。
勝頼が信玄の死後も、信玄のサインが入った書類を発行したりするなど、勝頼が当主として慣れるまで信玄の威光が活用できるように配慮しています。
しかし、諏訪家を継いでいた過去や、官位と名前、そして時間はどうしようもなく、勝頼を完璧な後継者として育成することはできませんでした。
信玄の後継者育成に問題をつけるとしたら、「正統な後継者である義信の育成に失敗し、死に追いやってしまった」ことであると思います。