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2021/1/22 15:36

44回答

物部氏と蘇我氏は仏教の導入を巡って激しく対立し…と伝えられてますが、

日本史 | 世界史73閲覧

回答(4件)

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物部と蘇我の二大王家の対立。仏教云々は末節で、政争の具。双方とも三韓のシンパを抱えて内部での主導権争いがあったのではないでしょうか。

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質問者

2021/1/24 12:32

なるほど。継体天皇イコール蘇我氏と見るべきなんですかね?

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天皇氏なんて聞いたことないですよね。 大王家の血筋に一番強い豪族の娘を嫁がせ続けるのが日本の天皇家です。古墳時代はそれが物部氏だったわけです。つまり天皇家=ほぼ物部家です。だから天皇祭祀はほぼ物部式祭祀なんです。前方後円墳が作られていた時代が物部氏の時代です。それが没落して政権与党が蘇我氏になって別系統の皇統に変わった。それが継体天皇です。前方後円墳祭祀は急激に縮小されていき、神道とは別系統の仏教を国家祭祀として採用するようになります。仏教の導入をめぐって戦ったのではなく、物部氏(神道)と蘇我氏(アンチ神道)の戦いで蘇我氏が勝ったから天皇祭祀で仏教が採用されるようになったんだと思います。 以上、妄想でした。

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私見ですみません。 この一件は、 実際は大したことない傍流の小競り合いだったと思います。 これを後の世の為政者が、自分達の正統性を語る事件として脚色した。 堀江に投げ捨てた仏像は長野善光寺の本尊という言い伝えもあります。 やんちゃな物部傍流が、 珍しいお宝を頂こうとして、手痛いしっぺ返しを受けつつ長野へ逃げた。 元祖山田寺仏頭事件的な、そうは言っても当時の仏教は最先端の学問なので 最新情報を頂こうとしたのでしょう。 記紀の中では、出自不明な新興勢力の蘇我氏が、 元祖畿内王である饒速日の正統な嫡流である物部氏を滅ぼした。 という書きっぷりなのですが、 事件後も双方勢力は健在。 大臣や、帝へ妃をバリバリ出して朝廷主力中の主力です。 記紀は天武帝が詔して、持統帝・不比等が為政者の時代に世に出ました。 早い話、中大兄(の娘)・鎌足(の息子)で復活した政権です。 乙巳の変(入鹿暗殺)の正統性を語るためには、 是が非でも蘇我氏(入鹿)が悪人じゃないといけないのです。 しかしながら乙巳の変後は、 蘇我の大王(幸徳帝)に蘇我の左大臣(石川麻呂)でおまけに難波へ遷都。 畿内には一片の不安材料も無しで、当然に蘇我・物部は安泰という状態。 中大兄の即位なんてかけらも無い訳です。単なる要人暗殺で終わった。 しかも中大兄はこの両名を葬ります。再度の要人ダブル暗殺。 幸徳帝は母が吉備姫王ですから、物部と蘇我のサラブレッドです。 入鹿を単なる為政者と仮定するならば、こちらの方が重罪。 しかし、記紀は入鹿暗殺の正統性を強く出しています。 蘇我入鹿は単なる為政者では無さそうです。 蘇我氏を極悪人にするための手段として脚色して再利用した。 小競り合いがあって、仏像もとんでもない場所に行ってますので まるっきり嘘じゃない。当時の人たちは事件をまだ憶えてる。 これは利用できる!!と考えた。 記紀編纂の為政者(歴史の勝者)の魂胆ではないかと思います。

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物部氏(尾興)はもともとの日本古来の神道を信仰していて朝廷の政治にも影響力が大きい、軍事を担当する大連。 蘇我氏(稲目)はもともと朝鮮(百済)からの渡来人をたくさん部下に抱えていた大臣。 尾興と稲目が当主の時代に仏教が百済から入ってきたが、蘇我氏は物部氏の勢力を削ぐと同時に朝鮮(中国)との関係を強めるために仏教を容認した。

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