ID非公開
ID非公開さん
2021/2/19 11:19
5回答
歎異抄、摂取不捨の御利益を得る。についてですが不明瞭で理解出来ずにおります。
歎異抄、摂取不捨の御利益を得る。についてですが不明瞭で理解出来ずにおります。 不変的な絶対的幸福である事はわかりますが。体感的な事なのでしょうか?皆様どのように捉えているのでしょうか?ご意見いただけると幸いです。
『念仏申さん』と思い立つ心がおこるとき、すなわち摂取不捨の御利益にあずけしめたまうなり。抜粋 弥陀の救いは死んでからではなく生きている時からの救いであると思い信心を賜った際(他力)人智で理解出来るのかな?と思い質問に至りました。感得したのお話を人伝で聞いたこともあるので。
ベストアンサー
これは、本当は理解できる類い(たぐい)の話には思えません。 既に阿弥陀仏の光明が差して救われ疑い無き状況の時に、念仏をするのです。普通は救われたら感激したり、感謝しきれないほどの感謝するものです。 普通は、往生をしたいが為に念仏をするでしょう。ところが往生が決まった上で、救われたところから、尚、仏を念ずるという不可思議な領域の話です。 一度、智慧を摂取したならば、もはや不捨のものであって、その利益(りやく)は世間での利益(りえき)で比べられるものがありません。
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頭脳で理解は出来ないと思いますが、理解出来た時は、もう既に覚っているのだろうと思います。 感得した者は多くても、生きたまま仏に成っている訳ではございません。それは感得した本人が己が仏に至っていないことはよく分かっているハズです。 感得の体験を通して自分なりに説明をされる方は多いと思いますが、もし理解していると言いますならば、仏を宣言しているのと変わらないと思います。
質問者からのお礼コメント
皆様ご意見頂きありがとうございます。合掌
お礼日時:3/1 21:24