織田信長の政策でも過大評価されているのは楽市楽座といわれています。

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織田信長に関してはまだまだ政権の確立期であったというのは大きいでしょう。 検地に関しても地域によってやってたりやらなかったり、実施方法が異なっていたり。 よく言えば是々非々の対応を取って画一的な政策を押し付けていないと言えます。 これはまだまだ政権が盤石ではなく倒すべき勢力も多く残っているので、画一的な政策に拘泥するよりも是々非々でスピーディーな展開を求められたためと考えられます。 軍制もしかりで、軍役の負担方法など織田家は依然曖昧でよほど武田家などのほうがシステマチックでした。 ちまちまと軍制を近代化するより一気に大金と大軍を投下して勝ってしまうというのが織田信長なりの合理性だと思います。 (ステレオタイプな革命児という評価とは逆の意味での合理性があるものと思います。) 豊臣政権は盤石な権力を元に制度や、やり方を整備するだけの腰の据え方ができる状況でした。 織田信長の政権が長く続いて基盤整備に余裕が出ればもっと変わった政策に転換していたものと思います。

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市で儲けた金を上納させていたからですよ。 なので、信長は、市が盛り上がり繁盛するほど金が入る。その金で、鉄砲を買える。 そういう上納金を矢銭と言います。

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信長の時代の楽市楽座は、競合する大名や寺社勢力との商業利権争奪戦の意味合いも大きかったのだろう。 ゆえに、大商人・元締め等に便宜を図り、彼らと結託して経済を活性化させようとした。 秀吉は、天下統一を果たし大名を配下に置けたうえ、信長が寺社勢力を駆逐してくれたので、商業利権の多くを手に入れた。 そして秀吉は大名たちには気前よく農地としての領地を与えまくったが、主要な商業利権や鉱山、そして海外貿易は極力独占を図った。 そういう具合に全国統一を果たした以上、信長時代に強化されつつあった特定大名の楽市楽座は、秀吉にとっては邪魔なものでしかない。 そういう事情で破座を強行したのだろうし、当時の秀吉に歯向かえる大名はいない。彼らも彼らで大きな領地を貰えて満足だったのだろう。