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理由は多数あります。 ①ヨーロッパ全域にわたる長大な沿岸線をすべて警備することは不可能で、増え続ける密貿易を防げなかった。 ②イギリスの古くからの友好国であったポルトガルが大陸封鎖令に従わず、1807年以後のポルトガル遠征も次々と失敗して、反乱が起きたスペインと併せて、イベリア半島で大陸封鎖令に従わせることができなかった。 ③1812年にロシアがティルジット条約を破棄して大陸封鎖令から離脱したので、ナポレオンはモスクワ遠征を起こすが、フランスがこれに敗退したので、従わせることができなかった。 ④1812年、1813年の戦役に敗北によって、ナポレオンは同盟国と衛星国家の多くを失い、軍事的敗退と占領地の縮小によって、大陸封鎖令は実行不可能になった。 ⑤1809年にイギリスで起こった経済恐慌が波及して、1810〜11年にヨーロッパ全体に経済危機が襲い、農作物の価格が下落し、属国がフランス製品を買う購買力が落ちたために大陸システムが機能しなくなった。 ⑥⑤の結果1810年にはフランスも輸出危機に陥ったため、ナポレオンは大陸封鎖令を緩和せざるえなくなり、凶作だったイギリスに対してフランスの穀物を輸出する特別許可を出してフランス経済を好転させたが、軍事費が必要になるとイギリスへの穀物輸出の許可証発行を恒久化したため、1813年には禁輸処置は(フランス自らの政策によって)有名無実となった。 あと、フランスで産業革命が軌道に乗りはじめるのは、1830年代の七月王政の頃であって、ナポレオン体制の頃には産業革命がまだフランスに存在してないので、×「取って代われる程の産業革命が進んでいなかった」という表現は、すでに産業革命(工業化)が始まっていたかのような言い草なので、間違いでしょう。フランスではミュール・ジェニー紡績機をイギリスから輸入して模造品を使っており、紡績、綿工業は家内制手工業を脱していませんでした。工業分野での改革がフランスで始まるのはずっと後です。 ですから、ヨーロッパの工場の地位に取って代われなかったことを、言うならば、イギリスは産業革命が起きていて、フランスはまだ起きてないかった、という関係性をはっきりいう必要があります。 ×「フランスではイギリスの生産能力に取って代われる程の産業革命が進んでいなかった」 ↓ ○「産業革命が進んでいたイギリスに取って代われる程の供給能力がフランスにはなかった」 ちなみに、ヨーロッパの工場にはなれなかったフランスですが、フランスによるヨーロッパ市場の独占という目的は一時期ほとんど達成しており、この点は成功してます。ただ単価が高く、割高なコストを同盟国や従属国に押し付けるという格好になってので、フランス以外の国の不満が高まるという状況を発生させました。しかしフランス第一主義にもとづく政策なので、フランス以外の国の不満は最初から考慮されていませんし、力で抑えてつけていたわけです。そしてその軍事力の力が衰えたことで、大陸システムを維持することが不可能になったという構図であり、供給・生産能力の不足が”フランスにとっての””問題だったわけではないですし、巨大な軍事力が保持されていれば、ヨーロッパの不満は圧殺できたわけです。だから、大陸封鎖令が上手く行かなくなった最大に理由は「軍事的敗北」なのです。これを抜かすことはできません。 注意 イギリス経済は大陸封鎖令によっても新大陸貿易の拡大などで、さほど大きな被害を被らなかった。1809年の凶作の穀物危機はまさにフランスからの穀物輸入で解消しており、よく間違われるが、大陸封鎖することでイギリス経済を破綻させようという意図はほとんどなく、重商主義の考えで、イギリスの輸出を禁じる一方でイギリスが輸入することで正貨(金銀のこと)を排出させて、イギリス国内の富の流出から経済に打撃をあたえようとした程度でした。イギリスで起こった経済恐慌は投資熱を集めた新大陸貿易バブルが弾けたものでした。
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質問者からのお礼コメント
なるほど!ありがとうございます!
お礼日時:3/5 19:49