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2021/3/2 8:11

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アメリカ独立戦争と、アメリカ南北戦争を分かりやすく教えて下さい!!!

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆様ありがとうございました!!ベストアンサー迷いましたが、一番最初にお答え頂いた方にします!!本当に皆様助かりました!!

お礼日時:3/4 23:46

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アメリカ独立戦争 アメリカってのは元々、大部分がイギリスの「植民地」だったけど、イギリス本国に税金を払うのが面倒になったから植民地は結束して「国家」としてイギリスから独立しようとした。それを阻止しようとしたイギリスと起こした戦争。 アメリカ南北戦争 アメリカって広いから、北部と南部で色々違う。 北部は工業中心で奴隷は重要ではなかったけど、南部は農園中心で奴隷経済まっしぐら。経済圏は微妙な均衡を保ってたけど領土拡張を進めた結果、気がつくと北部の経済形態の方が優勢になり、旨味がなくなる南部が「あっ・・・」と察した結果、合衆国から離脱しようとして起こした「内戦」。 リンカンはその時の合衆国(北部)大統領。 7年戦争は独立戦争より前の植民地でのフランスとイギリスの争い。 あとの細々としたことはwikiでも読めば充分。

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まず、独立戦争への経緯から。 北アメリカで戦ったフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)と、ヨーロッパでの七年戦争(1756~63年)は同時期です。勝ったのはイギリスでしたが、戦費で借金返済が大変でした。 そこで植民地に課税しようとしたのが、印紙法(1765年、翌66年撤廃)やその他の法律(タウンゼンド諸法1767年、70年に茶税以外撤廃)で、印紙法に反発した言葉が「代表なくして課税なし」です。植民地側はイギリス議会に代表を送ることが認められていないというのに、勝手に課税が決められたことに強く反発しました。反発の結果、法律は撤廃されましたが、後の反抗運動へとつながります。 さらに茶法(1773年)→ボストン茶会事件(同年)→ボストン港閉鎖(1774年)とエスカレートしました。 「ボストン茶会事件」については詳しくは↓をどうぞ。 https://www.y-history.net/appendix/wh1102-014.html で、レキシントンとコンコードで武力衝突が起こって(1775年)、アメリカ独立戦争(1775~83年)となりました。 独立宣言は1776年7月4日です。独立宣言の起草の時には奴隷制を批判する内容もありましたが、プランテーションで奴隷を使っている南部はこれを受け入れず、結局、宣言では削除され、奴隷制は残りました。後に南北戦争へとつながります。 ------------------------------------ ●南北戦争へ アメリカ独立後、アメリカ南部は綿花栽培がさらに盛んになって奴隷の数も増えていきました。南部は奴隷制存続と自由貿易、州の自治を強く要求します。 対して、北部は産業革命が進めるためイギリス製品との競合に有利なように、保護関税政策とそのための連邦主義を主張し、人道的な立場から奴隷制に反対していました。 ▼南北戦争へと至る流れで重要なのは、1.ミズーリ協定、2.1850年の妥協、3.カンザス・ネブラスカ法、の3点です。 1.1820年のミズーリ協定では、ミズーリ州は奴隷州とする代わりに、メイン州を作って自由州として奴隷州12州、自由州12州とバランスをとり、そして今後は北緯36度30分以北では奴隷州を認めない、とすることで妥協しました。つまり気候的に綿花栽培が可能な境界線より南側では、今後も奴隷制を存続できる、としたわけです。 ↓詳しくは「ミズーリ協定」 https://www.y-history.net/appendix/wh1203-040.html 2.1850年の妥協 ところが北緯36度30分にまたがっているカリフォルニアの州昇格をめぐって対立が再燃し、結局、カリフォルニアは北緯36度30分で分割せずにカリフォルニア全体を自由州として州昇格、代わりに北部に逃げた奴隷をちゃんと捕らえて送り返すという逃亡奴隷法を強化する、ということで妥協しました。 https://kotobank.jp/word/1850%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%A6%A5%E5%8D%94-88880 ところが逃亡奴隷法により、北部の人の目の前で逃亡した黒人奴隷が捕らえられ、引きずられていくということになって北部で奴隷制反対運動が盛り上がっていきます。 またストウ夫人が『アンクルトムの小屋』(1852年)を執筆するきっかけともなりました。 3.カンザス・ネブラスカ法 1854年、南部の意見を反映した民主党主導の議会で、新しい法律が出来ます。準州から州に昇格する際には、奴隷州とするか自由州とするかは住民が決定できると定めて、実質、ミズーリ協定を否定してしまう内容でした。そのためカンザス州では、奴隷制賛成派と反対派が流入して争い「血のカンザス」と呼ばれる暴力事件へと発展しました。 「カンザス・ネブラスカ法」 https://www.y-history.net/appendix/wh1203-043.html そして、同1854年、共和党が発足します。 ●ドレッド=スコット判決 → 妥協困難に 以上のように、対立は激化していきましたが、さらに解決を難しいする最高裁判決が出ます。ドレッド=スコット(Dred Scott)という黒人が自由州にいたことを根拠に奴隷からの開放を求めた裁判の判決で、最高裁は黒人奴隷には訴訟を起こす権利がないとして要求を棄却、さらに憲法が定める財産権を根拠に、奴隷制を禁止する行為は財産権の侵害だとして、州政府による奴隷制禁止の法律を違憲としたのです。(1857年) この判決により、もはや憲法を修正しないと奴隷制を禁止できなくなっため、南北での妥協が困難となりました。 「ドレッド=スコット判決」 www.y-history.net/appendix/wh1203-045_1.html ●リンカーン登場 翌1858年、イリノイ州の上院議員選挙で、カンザス・ネブラスカ法を提案した奴隷制擁護論者のダクラスが現職候補として立候補します。南部だけではなく北部からも支持があり、有力な次期大統領候補でした。 共和党の対立候補は、1854年に出来たばかりの共和党の、全国的には無名のリンカーンで、公開討論が行われることとなりました。最有力大統領候補であるダグラスが何を語るのか、全米から新聞記者が集まり、この討論が注目を集めました。 ところが、この無名の政治家が、最有力大統領候補のダグラスを議論で追い詰めていきます。止めをさしたのが、「ドレッド=スコット判決」を持ち出しての、州政府での奴隷制度が禁止出来るかどうかの問いでした。 この問いに対してダグラスが、禁止出来ない、つまり判決を正しいと答えれば、南部は喜びますが、北部からの支持を失います。逆に禁止出来る、つまり判決は間違いだと答えれば、南部からの支持は得られなくなります。 窮地に追い詰められたダグラスは、「理論的にはドレッド=スコット判決を支持するが、現実的には奴隷制度はその現地の人々の支持のあるところにのみ存在しうる」(*) と答えざるを得ず、その結果、上院議員選挙ではダグラスが勝って当選したものの、特に南部からの支持を大きく失い、逆に落選したリンカーンが、一躍、全米で有名となりました。また、この論争で南部は、共和党のリンカーンを激しく敵視するようになりました。 ●南北戦争へ そして1860年の大統領選挙においては、ダグラスは民主党全国大会での大統領指名を逃し、民主党候補は南北で一本化できず、北部民主党はダグラス、南部民主党がブレッキンリッジと分裂したため、共和党のリンカーンが有利となり当選しました。 リンカーンが当選すると、南部の州は次々と連邦政府を離脱、アメリカ連合国を結成しました。そして連邦政府の軍事施設であるサムター要塞を包囲、砲撃を加えたことで、南北戦争となりました。 戦況は当初、北軍が苦戦しましたが、1863年に南軍の攻勢が限界となったところで奴隷解放宣言を出して、外国が「アメリカ連合国」を承認するのを防ぎました。 以降、北軍優勢となりました。 1865年、リンカーンは憲法修正に取り組みます。憲法修正第13条「奴隷および本人の意に反する労役は、(中略)いずれの地にも存在してはならない」を成立させ、奴隷制廃止を憲法で定めました。 その成立の過程の困難さはスピルバーグの映画『リンカーン』(2012年)で詳細に描かれています。 「アメリカ合衆国憲法修正第13条」 https://www.y-history.net/appendix/wh1203-060.html (*)中公旧版『世界の歴史<11> 新大陸と太平洋』 「避けえられぬ南北の争い」の章、「リンカーンの登場」より