キリスト教は、 三位一体じゃないとダメだとか、 三位一体は偶像だとか、 三位一体にも色々あって、 三位一体且つこうじゃなきゃダメだとか、

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ベストアンサー

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多陽亭 里漫さん2021/3/3 19:15は、 「こうでなければ救われない、こういうものは救われない とお互い否定し合ってる」ことについては 良いことだと思ってるのに、 なぜかブレスさんだけ除外。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆さんありがとうございました。

お礼日時:3/4 21:21

その他の回答(3件)

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いろいろな意見があるのは多様性のおかげで それで人が考える事になるから良い事だと考えています。 少なくともブレスさんのような教派以外の教派は

「こうでなければ救われない、こういうものは救われない とお互い否定し合ってる」ことについては 良いことだと思ってるのに、なぜブレスさんだけ除外?

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三位一体は、まず事実だし、それが必要だったのは救いのための議論だったからだ。 イスラムのように完全単一の神というものからは救いというものはない。 本当は神に赤も青もないから、イスラムの神もキリスト教の神も同じ神ではあるのだが、完全単一の神では我々との接点というものが生じない。それでは説明として舌足らずなのだ。 多くの人は誤解している。 聖書が書かれて、その内容を誰かが吟味して、三位一体という考えが生まれたと思っている。 そうではない。 最初からその考え方が完成された形で存在していた。それは単に神学ではなく、割と単純な事実である。 そして、教会の人間はなんとか日常の言語でそれを誰にもわかるような形で表現しようと腐心した。それが教会のあらゆる祈祷やニケア信経などに反映されている。 最初にそれをゆがめたのはカトリックだった。 彼らは聖霊は子からも出るといい、聖霊は父と子を結ぶ愛の絆だと主張した。カトリックはその考え方を推し進め、トマスに到って、完全無欠の神を主張し、誰一人神の実体に与ることができないと主張し始めた。 そうではないのだ。見えざる神が見える子と言う実体をとってこの世に来て、被造物の中に聖霊という命が宿るという真実がなくては、キリスト教による救いはない。 子は来ましたが、結局子を見ても誰一人神の実体に与ることができませんでした・・・そんなキリスト教に何の意味があるでしょう?子が来たのは神と人との敷居を取り除くためだった。

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>救われる為にはどうのこうのと色々と条件を言い… 申し訳ないが、聞いた話の尻切れ状態で、解ってないようです。 「三位一体」と「救い」は何ら接点は有り売ません。 三位一体:教義として用いてる言葉に過ぎません。正確性に欠けますが、聖書の示す「神」を端的に表した言葉としています。もっと、適切な表現があるなら、そちらだっていいんです… 救い:信仰のみです 人によって、「信じる対象」が「三位一体の神」と挿げ替える事があるが…結局の処「聖書の言う神様を、聖書の言う通り信じる」事です。