徳川幕府15代将軍慶喜は「優秀な人材」だったのでせうか?

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大変勉強になりました m(_ _)m 慶喜も、最も重要な時期に選択を間違えなかった英雄たちの一人というご見解ですね。 確かに松平容保の会津は徹底抗戦しましたが。 しかも会津っぽは、今もって「長州」を許していないw

ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆さま本当にありがとうございました。 どれも素晴らしい回答であり、自分にとっては「解答」でもあったので、皆さま全てベストアンサーであったのですが、一つに絞らねばならず・・・。 迷いに迷ったのですが、自分とは「対極的な」慶喜の評価をされておられる方にさせていただきました。 同じ人物でも、このように評価が分かれるので、歴史談義とは面白いのだと思います。 改めて皆さま、ありがとうございました。

お礼日時:4/18 22:07

その他の回答(7件)

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個人レベルでは優秀だが、組織の人間としては「地雷」に近い。 戦時中に、前線を担う人々が上層部を揶揄するのによく使っていたという「陸大出の試験上手」という言葉が最も似合うタイプだったと思います。 いろいろ調べてみると、一人の人間としては割とクセの強い方。 周囲からは「何を考えているのか分からない」と見られ、同時にそうした周囲の人々の事を煙に巻いたり、小馬鹿にするような態度を時おり見せる。 将軍就任への期待を大いに集めながらなかなか実現しなかった理由として、南紀派の存在とは別に、慶喜のそうした人柄が一橋派の中でも微妙に嫌気されていたことが挙げられるようです。 恐らくは、自分の知力を生かせば幕府の抱えた難事など如何ほどのことがあろうかと自ら考え、大所高所から状況を見ることが出来るのはこの人物だけだ、と思わせる雰囲気のようなものは、実際に身に付けていたのでしょう。 しかし時は幕末であり、その危急存亡の状況は、経験の浅い守旧的な組織のエリートぐらいではとても手に負えなかった。 そのため頭で考えたところで動かせない現実にぶつかった時、結局は日本版ヴァレンヌ逃亡とでも評すべき失策を犯し、それまでの努力を一瞬で瓦解させてしまったのでしょう。 迷惑どころの話ではない、会津藩や勝海舟などにその責任を全て丸投げする形で。あとの始末も、自分がより悪化させた事態のソフトランディングを目指す事も、何一つしようともせずに。 そうやって自分だけが逃げたことで、明治期になって後「新政府に逆らわなかった」と本人は持ち上げられるようになりましたが…。 正直この人物が許されたことで、その後、日本では「社会的エリートは何を失敗しても許される」習慣が容認されてしまったように思えてなりません。 第二次大戦の敗戦、巨大な国鉄債務、社会的格差の増大、破たん寸前まで悪化しているとされる年金、そして原発事故。 日本史上における徳川慶喜という人物については、そのような国家や国民に重大な被害を与え、明らかに失政させた者たちがナアナアで誰一人責任を問われない。そうした社会状況へと至る口火を切ってしまった人物であるように正直感じています。 (編集ミスが有ったため一旦削除し再投稿しました。)

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超優秀だけど政治家としての器量は?で、今でいう官僚向きの人で、政治家向きの人ではなかったんですよ。 ただ、当時の制度では今でいう官僚と政治家の境界がはっきりしていないので、将軍に祭り上げられれば断れなかったんじゃないかなと思います。 幕臣として欧米諸国の情勢は耳にしてるはずですから、今後の日本の方向性について思うことも多々あったと思います。 日本もいづれは欧米諸国のように国民政府化する流れには逆らえないと感じていて、いづれは徳川幕府は時代遅れになってしまう。 権力移譲に手間取れば、欧米諸国の介入を招き、最悪植民地化もあり得る。国民全員が辛酸を舐めるくらいなら、放っておいてもいずれ滅びるであろう徳川幕府の名誉などこの際どうでもいい。いっそ自分の代で幕を引いて、新しい時代に賭けたほうが、日本にとっては有益だろうという判断をしたんだろうと思います。 鳥羽伏見では敵前逃亡をしたと罵られていますが、あそこで退かなかったら、幕府軍と明治政府軍との内戦は激化し、徳川幕府から明治政府へのスムーズな権力移譲は難しかったと思います。 慶喜公が引き際を心得ていた頭脳明晰な人物だからこそできたことで、暗君だったらこうはならなかったかもしれません。

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朝廷には従順する立場を貫いたのです。 鳥羽伏見の戦いで、幕府軍を指揮して戦えば、勝てたでしょう。 しかし、それで、どんな世の中になりますか。

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自分が、官軍だと思っていたのが、突然『錦の御旗』を掲げられて、賊軍にされてしまう。慶喜は、水戸家出身で尊皇思考が強かったので、戦意喪失したと思います。 自分は慶喜は、優秀だったと思ってます。最後の将軍が、慶喜でなかったら日本は、外国の植民地になっていたかもしれません。

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慶喜側の史料、昔夢記、生母・正妻から推測すれば、 徹底した尊皇、内戦回避した人。朝廷が反徳川になったので徹底した非戦(朝敵)避けたと思える。 逆立場では多くの評価になる。その評価作ったのは反徳川の明治政府が定着させている。 明治政府(天皇)は明治政府建設に多大な貢献したとして明治30年?公爵にしてる。位階も最高与えてる。