最澄と空海ってなぜ喧嘩したんですか?

日本史 | 宗教94閲覧

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空海が最澄に求めた「3年」の修行じゃないですかね。 空海は、最澄が3年も自分の下で弟子として修行する気はないことを知っていて、3年と言ったんじゃないですかね。つまり断る為の方便です。空海にとっては秘伝にしておきたい教えだったでしょうし、最澄はライバルでもありますから。 空海は長安の恵果和尚の下で”特別講義・集中特訓”を受けて、わずか半年未満で阿闍梨灌頂まで受けて伝法を認められるわけですが、これは異例のことです。真言宗側では”空海は天才だったから”とされていますが…。 (空海の唐滞在は約2年ですが、恵果和尚が亡くなられてからは長安を離れ、土木建築や薬学を学んでいたそうです。恵果和尚に出遭う前にはインド僧に梵語を習っていたそうです) 当然、最澄も空海が半年しか恵果和尚から密教を教わっていないと知っていたでしょう。そこへもってきて、”俺の下で3年は修行しないと教えられない”ですからね。 まあ、どちらが悪いということではなく、まさしく喧嘩ですよ。よくあることです。

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密教観の違いと弟子の取り合い問題です 奈良元興寺で出家した後、最澄に師事したのが泰範。 後の空海の十大弟子の一人です 最澄は空海から、灌頂付法を12月10日に行うと約束され、11月5日、7日には泰範に空海のもとで共に灌頂を受けようと2度にわたり説得している。 最澄への高雄山寺(後の神護寺)での灌頂は予定より早く11月15日に金剛界灌頂が行われ、泰範ら最澄の弟子でなく高雄山寺の檀越である和気真綱らがともに入壇した 12月24日、泰範は最澄やその弟子らとともに胎蔵界灌頂を受け、翌弘仁4年3月6日に泰範は円澄ら最澄の弟子とともに金剛界灌頂を受けた。 この後、最澄他弟子らはみな比叡山に帰ったが、泰範は高雄山に留まった。彼を愛弟子として、また後継者として目していた最澄は再三比叡山に戻るよう促すも、泰範が比叡山に戻ることはなかった。 最後は弘仁7年5月、空海が泰範の手紙を代筆して最澄との宗教上の見解の相違と叡山に帰る意志のない旨を記し最澄に送った

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物とは別に最澄が空海に弟子を使いに送ったが それも返さず自分の弟子にしてしまう程のことをしたのは、同じ遣唐使船団だったのに、最澄はあっさり、浙江省天台山最短距離の港に着いたが 空海の船は難破漂流し 着いた港では海賊嫌疑で数十日上陸を許されず 上陸後余計歩きたい 反発4国遍路を思いつき 中国人には失望したので中国でもインド人僧を師と仰ぎインド梵語字に傾倒 火渡り 護摩焚き の呪いを覚え他の恨みは すんなり主流派の最澄にも及んだと予想出来る。

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解りやすく言えば、エロ本の貸す、貸さないで、喧嘩したんだよ。 理趣経という、男女の交わり、性の快感が悟りを開く方法のひとつだよ〜♪という経本の貸す、貸さないで喧嘩したんだよ。 本当は、男女尊重し合いましょうという教えなんだけどね〜♪ 愚僧でした。 (^人^)合掌