自己犠牲してまでも他人の幸せを優先させるのは尊いことですか?

哲学、倫理 | 宗教51閲覧

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自己犠牲ではなく忠誠心を持つことであれば尊いのではないでしょうかね。 己が本心から望んではいないことだが 自己犠牲してまで、他人の幸せを優先させるという事自体、周りも本当に幸せに繋がるのかという疑問に辿り着きます。他人の幸せの為には こうしないといけないと決めつけた上で行動に移す正義が自己犠牲だと考えます。なので、正義というのも、あってない様な扱いになるのでしょう。 その使命を果たせば自分は無理してまで頑張った、犠牲になったと威厳が生まれます。 これだと歪んだ正義同士で対立が起こり他人の幸せを優先させる所でもありません。逆効果です。 偽善とも違い、本心で何かの為に尽くそうとするということが厚みも変わってくる様に思われます。それが忠誠心なのだと解釈します。 犠牲になる人がいる分、逆にこの世には産まれて来ない方が良いのでは無いのかというような思想も生まれたのではないのかとも考えられます。 それを受け入れる器量が人間には無いです。 自分自身から犠牲になる形でなく、何も罪も無い人も犠牲になったりするリスクがある分、犠牲という言葉自体、余り良い解釈が出来かねます。 ただ、責任感というのがあるのが人間なので犠牲とは思いたく無いという捉え方が出来ます。 元から一点集中型で尽くす傾向のある人というのに関してはその人の元の性格です。 犠牲だと偽善が生まれるきっかけに過ぎないものになるのでしょう。 逆に忠誠だと善と考えますし尊いと考えます。 相手の為を考えた上での行動の結果、 徳(陰徳)が少なからず積めます。 又、忠誠の反対語を調べると隷属、隷従、服従という意味合いになります。 支配欲から逃れられるという考え方が出来ます。 その上で他人の事を先ず考えた上で裏で忠誠(善)を行うことが出来れば 精神的に安心が出来て対立を生むことはないのではないかと考えます。 その上で幸せというのが得られて、 犠牲という考え方を態々しなくても済むというのではないのかと考えました。

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献身の感情、隣人のための犠牲、このようなあらゆる自己放棄の道徳を、仮借なく審問して法廷に引き出さねばならぬ。さらにまた「利害なき直感」の美学をも。これを名として、現代では芸術の去勢が行われ、それが魅力さえ持ってやましからぬものとなりつつある。「他人のため」とか「自分のためではない」という感情には、あまりにも多くの甘い魅力があるので、それだけいよいよ猜疑もわき、尋ねたくもなるのである、「これは誘惑なのではないか?」、と。それを持つ者にも、その果実を受ける者にも、また第三者にも、この感情は気に入る。この気に入るという事実は、未だ必ずしも証明したことにはならない。むしろ、[警戒せよ]と勧めるのである。されば、警戒せよ! 世話好きで親切な人というものは、ほとんど例外なく、まず助けられる人を用意してかかるという愚かしい策略をするものである。たとえば、相手は助けてやるに値し、こちらの助けをまさに求めているところであり、全ての助力に対して深く感謝して以後は輩下となって服従するであろう、と思い込む。かく自惚れて、彼等は所有品を左右する如くに困窮する者を左右する。もともと彼等は所有品に対する欲求からして、世話好きで親切なのである。されば、もし彼らが助力を阻まれたり出し抜かれたりすると、嫉妬する。 (ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳) ニーチェは、自己犠牲の思想を、 善人の仮面をかぶった狼として批判したのではなく、 純粋な善意の自己犠牲こそが人の心を奴隷化する、 と見通した優れた洞察を持っていました。 誰にも文句の付け所のない純粋な善なる自己犠牲、 それこそがニーチェが「警戒せよ!」と叫んだところのものなのです。

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NO 時と場合によって、「それ」が必要な場合もあるけれど、それは何らかの価値観による問題解決の優先順位を示すものであって、決して「尊いから」というものではない。