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2021/5/6 20:13

22回答

何か小耳に挟んだのですが、

ベストアンサー

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質問者2021/5/6 22:07

有り難うございます。 そんなこともあって、 信長は暦にもこだわったわけですよね。三島暦とか。 当然、信長は日食を知ってて、 なにも無理難題を吹っ掛けて混乱させようとしたわけではありませんよねえ。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

なんか気に成りましたので。

お礼日時:5/12 3:07

その他の回答(1件)

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当時の京都で使われていたのは、暦博士の賀茂在昌が造る中国の唐代の宣明暦に基ずく「京暦」と呼ばれるものでした。 桐野作人氏によると、その「京暦」では天正十年六月一日が日食でした。 さらに、「京暦」では天正十年には閏月はなく、翌天正十一年一月の翌月に閏一月が置かれていました。 一方、東国などで使用される三島大社が造る「三島暦」では天正十年十二月の翌月を閏十二月としていました。 これでは、京都と東国では元旦が一ヶ月ずれてしまいます。

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質問者2021/5/8 18:20

単刀直入に三島暦を推進した信長は何を意図したとされますか?