仏教の悟りが、外部ではなく自分の内部にあるというのは何故なのか教えて下さい

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました m(_ _)m

お礼日時:6/10 22:06

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仏教は素朴実在論です。正しく認知されたものは実在と見るのです。主客(内外)を分離しない見方です。 そしてそれぐるみ空だというのです。実体がない。 それってどんな按配かと聞かれそうですね。 修証一如の坐禅、只管打坐するしかありません。

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自分の内部に仏性(仏と同じ性質)ありということです。 哲学でも、『哲学とは汝自身を知ること、汝の内なる神性を知ることである』といった言葉もあります。 また、人間の心はミクロコスモス(小さき宇宙)であるとも言われます。 自分の内なる仏性を深く知ることはそのまま外なる世界への認識を深めることにもなり、逆もまた真です。

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こんにちは。「tyran」です。 「悟り」は「心の中の出来事」です。 この世において自分自身のすべては「心」から発動されます。 「心」があって「命」があって、さらに「魂:真我」が眉間の奥「脳内:脳下垂体」に収まっております。「魂」の次元は、第8次元「仏界」にあって、本来は「仏様の世界」にあるわけです。 だから、本人が「この世:現世界」に生まれて「縁」に触れながら気付きを得て、「大悟:大いなる悟り」を開いてくれないと、本来の「ホーム:仏界」に魂は帰れないわけです。 ゆえに「悟り」を開けないまま亡くなられれば、「霊界・天上界」にお帰りになられても「魂」はご納得されず、また「転生」され、生れ落ちて来られて、「本人」に悟りを開いてもらおうと、様々に「人間関係」に触れさせながら、気付きを得させようとします! 「魂:真我」が仕組まれる人生。 「心」は、胸の位置にありますが、”自分の思い”と、そうでない場合もあります。というのは、人間の腹「丹田:へそ下5㎝」には、「衣食住」生きるための鬼「丹田の鬼」が置かれているからで、その「鬼」は「欲心担当」で、本人の「野生面:ワイルド」を担っております。 口に入る「食べ物」は、みな「命」です。 「可哀想」と思うと、何も食べられなくなってしまいます。 そこで「無慈悲な鬼」が人間の腹に置かれてるわけです! 「鬼」は、英語で「デビル:悪魔」です。つまり、誰の腹の中にも「鬼:悪魔」が住んでるわけです。 しかし、生きるために必要な「丹田の鬼」も、人間の負の感情(恨み・憎しみ・嫉妬・ねたみ)が「胸」に抱かれることで、「胸」まで上がり、鬼のような人間、無慈悲な人間、犯罪を犯す人間、いじめ・虐待・テロリスト等、おおよそ「人間」と思えないような行動をする人物になりかねないので、常に「腹の鬼は腹のまま」、胸の中には「不鬼:鬼あらず」と心得て、生きて行かれる必要があります。 上記は、2011年5月に、私が悟った「三心経:蓮華心経・不鬼心経・拝霊心経」の一つ、「不鬼心経:ふきしんぎょう」(胸に鬼あらずの心のおしえ)です。 「丹田の鬼」は、動物の姿をしており「カメレオン」「ダチョウ」「アライグマ」等、人それぞれに、その人物の特徴を持っております。 私(tyran)の「丹田の鬼」は、「亀」です。 私はマイペースな男であり、のんびり屋です。 勿論、丹田の鬼が「亀」とは言え、負の感情から「恨み・憎しみ・嫉妬・ねたみ」等を「胸」に抱いてしまうと、「胸」まで「亀」は抱かれて、「カミツキガメ」のような、他人に危害を加える人間になる可能性も出て来ます! 「鬼」になると、人格まで「別人」のようになってしまいます。 「丹田の鬼」を「腹」に留めて生きる限り、普通に暮らせます。 では「胸」にあるべきは何であるか?それが「仏心:慈悲の心」なのです! ●「胸」には「慈悲の心:仏心」(空)鬼がいない。 ●「腹」には「丹田の鬼:欲心」(色)鬼がいる。 仏教は、強制・強要されて行われる信仰ではありませんが、実践行です。「悟りの世界」も実践行。「永遠の真理」を獲得できても、それを実践(不鬼:鬼あらず:鬼を胸に抱かない)出来なければ意味がありません。 「心」は「胸」にありますが、そこから発動される自身の思いは何であるか?「仏心」慈悲の心なのか?「鬼心:欲心」鬼のような無慈悲な心なのか? 人間は、生まれてから亡くなられるまで、自身の「心の発動」から生きて行かれます。仏様の様に、ゆるす心、情け心で生きて行くのか、鬼の様に、ゆるす心を持たず、情け容赦なく生きて行かれるのか、選択するのは「自身の内部」です! 「悟り」は「心の中の出来事」です。 人間は、見かけだけではその人物を理解することは出来ません! お釈迦様も、「仏陀:目覚めたる者」になられた後も、「布切れ」一枚をまとうだけで、「食事」は「托鉢」であり言ってしまえば「物乞い」です! その人の悟りの世界は、その人の中にあります。 清らかな悟りの世界を聞かされて、初めて、人々は「悟りの世界」を知ることが出来るのです。 人間は「悟り」を得るために生まれて来ておりますから、誰であれ、生れ落ちて来られれば、どこかの人生で「悟り」を開かなければなりません。「魂:真我」は、人生を仕組んで行かれます。 「輪廻転生」の繰り返しは、「悟り」を開けなかったゆえの「やり直し」です。勿論、人生にて「大悟」を獲得できれば「解脱:転生からの解放」です!ご入滅後、「涅槃」にて生れ落ちることなく暮らされ続けます。 人生が、例えどんなに「不幸・不運・不遇」であっても、気付きを得て「悟り」を開いて行かれることを忘れませんように! 「胸」は、常に「慈悲の心」で。 以上です。 ありがとうございました。

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2021/6/9 15:31

世界は、見て聞いて匂って味わって感じて、感情をもって考えて、自分の内部、つまり脳内に投影されたものを味わっているからです。

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「覚る」と「悟る」の二つの漢字があります。日本ではどちらも「さとる」ですが中国語は読み方が違うし意味も違います。「覚る」は覚醒するとか目覚めるという意味であり、仏性を覚醒させるという意味です。「悟る」は気付くとか理解するという意味です。釈迦は人間の悩み苦しみの根本原因が何なのかを悟った(気付いた)ということです。その根本原因は煩悩であるということです。原因が分かれば、それを克服するにはどうすればいいかを悟る(気づく)ことができます。その他にも釈迦や後に仏となった弟子たちが悟ったことが膨大な経典として残されています。 人間の内面には鬼と仏性の両面を併せ持っているというのが仏教の教えです。仏性とは慈悲のことです。慈悲とは地獄に在る人に救いの手を差し伸べたい、苦しんでいる人を救いたいと思う気持ちであり、それを実践するのが成仏の道である菩薩行です。ボランティアも困っている人を助けるのも虐待されている子供を救い出すのも菩薩行です。菩薩行を重ねることで仏性がその人の人格となる。それを「覚りを開いた」とか成仏した(仏に成った)と言います。 恨みや怒りや嫉妬は人間の心を鬼に変えます。鬼とは他人の不幸を願うようになった人間のことです。鬼の住む場所は地獄なので自分の生活が地獄へと変化していきます。それは恨みや怒りや嫉妬は自分が幸せになるための合理的な正しい判断をできなくするからです。したがって「許す」というのは相手のためではなく自分のためなのです。