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2021/6/14 13:50

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なぜ近鉄奈良駅とJR奈良駅はほかに奈良駅付近を通る路線があるわけでもないのに中途半端(徒歩10分ちょい)に離れた場所にあるんですか?

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>煤煙や火災に繋がりかねない火の粉が敬遠されて、街外れにしか線路を引けませんでした。 これはいわゆる「鉄道忌避説」と言われているものですが、近年の研究では実際にこういう運動が起きたのは鉄道による交通分野のパラダイムシフトが起きた時代だけで、明治後半にはなかったというのが定説です。街外れに駅が出来た例のほとんどは、地形の問題です。 ちょっと古いですが、忌避説への疑問提起となった論文。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/newgeo1952/29/4/29_4_1/_pdf また、奈良の場合は「江戸時代からの街のぎりぎり外縁」であって、「敬遠」されていたわけではありません。純粋に地形・線形上の問題と考えるのがよいと思います。現奈良駅は標高65m程度、近鉄奈良駅は85m程度です。蒸気鉄道にとって「登らなくていい勾配は登りたくない」のは常識でしょう。

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JR(昔は鉄道院→鉄道省→国鉄と変遷 今回はJRで統一)線は最初は蒸気機関車による運行していました。この為、煤煙や火災に繋がりかねない火の粉が敬遠されて、街外れにしか線路を引けませんでした。これはJR奈良駅にも当てはまります。 近鉄の奈良線は開業当初から電車で開業しており、地元の有力者も会社の設立に関わっていたので街の中心まで入れました。街の中心地に駅があり、列車の本数多ければJRから客を奪えますし。 京都も街の中心は京阪の三条駅や阪急の河原町駅辺りで、JR京都駅は開業当時は街外れでした。近鉄京都駅は沿線に桃山御陵(明治天皇陵)や橿原神宮や神武天皇陵がある関係上、JRとの乗り換えを重視して設けてられました。本当はJR京都駅北側に本格的な駅を設置しようとしていましたが、仮駅のままほったらかしにしていたら、真上に新幹線が通る事になりました。 大阪市の中心地は昔から本町(船場)でJR駅大阪は街外れでした。阪神にしても、阪急にしても梅田に駅を設けましたが、本当の狙いは、大阪市電に乗り入れもしくは独自路線による本町進出でした。この為、昔の阪急梅田駅も含めてJR大阪駅南側にありました。でも大阪市によって狙いは挫かれて両社は梅田駅周りの土地開発に乗り出します。 和歌山は南海の和歌山市駅にJRが乗り入れていますが和歌山駅との往復で本数も少なく、あって無いような存在です。和歌山と言えば南海の和歌山市駅とJRの和歌山が離れて並び立っています。

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JR線の多くは明治時代に建設されました。住民も見たことのないものを作るのですから用地取得は大変な作業でした。新橋・横浜間の鉄道は日本最初のものですから薩摩藩邸のあった高輪地区など建設反対運動が起こりました。建設の責任者であった大隈重信と伊藤博文は用地取得が難しい区間は、海中鉄道を建設しました。げんざいの浜松町ー品川間や鶴見地区など。その後の鉄道建設も中心市街地を通過すると家屋等の移転件数が増加し時間もかかるため郊外に駅を建設しました。駅を建設すれば街の中心街になることは欧米の経験で解っていたので躊躇しませんでした。 奈良もこのような経緯で建設されましたが、国有化後関西線の強化が行われず、後から建設された私鉄に客を奪われ街の中心地も奪われました。久留米は九州鉄道(現西鉄)が逆に郊外に駅を設置し、国鉄への影響は少なかったのですが、その後西鉄は周辺の開発を行い、現在では市の中心地になっています。国鉄の中心市街地への乗入れは東京のみで行われ、明治45年には呉服橋(現東京駅)まで開業、その後中央線の東京乗り入れ、貨物線の高架化と新線建設による東京・上野間の開業、関東大震災復興事業としてお茶の水・両国間開業で一段落しました。この時建設された駅は烏森(現新橋)有楽町、東京、神田、秋葉原、御徒町、浅草橋がありますが、これらの駅の収入はいずれも全国で100位以内に入る儲かる駅でした。

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そもそもの考えが逆です。 一部例外を除き、私鉄は電車(路面電車を含む)ですので市街地中心部にまで路線を延伸できたのに対し、JRの元となった国鉄は蒸気機関車だった為に市街地からは邪魔者扱いされ住居などのない田んぼの真ん中などに駅を作るしかなかったのです。 大阪駅も当初は栄えていた堂島あたりに路線を伸ばしたかったものの付近の住民から猛反対を受け、田畑や沼地であった現在の場所に大阪駅を設置するしかなかったのです。 梅田の語源も沼地を埋めたところから梅田となった説が有力です。 そもそも大阪駅は大阪市が市制を開始した当初は大阪市には含まれない西成郡曽根崎村だったのです。 京都駅も同様で、市内中心部に阪急や京阪は路線を伸ばしたものの国鉄は街外れの場所にしか駅·路線を建設できなかったのです。 国鉄·JRの駅前が発展したのはごく最近であり、開業当初から駅前が栄えていた訳ではありません。 大阪-奈良間において、近鉄は生駒山を駆け上がりトンネルを貫いてまでほぼ最短ルートで路線を建設したのに対し、蒸気機関車では急勾配を走行できず生駒山や信貴山を迂回するように遠回りで路線を建設したのです。 つまり現在の大和路線や学研都市線が大きく迂回した路線となっているのがその証とも言えるのです。

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従来より国鉄のターミナル駅は市街地から外れたところに建設されることが多かった。 金沢、京都、広島、松山、熊本等。金沢を除いて、いずれも私鉄のターミナル駅は中心部にある。奈良も同じ。

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JRの駅は明治23年にできたようなので、繁華街を避けた位置に設置したのだと思います。近鉄は大正3年で汽車の利便性が知られるようになり、繁華街に乗り入れしたのだと思います。 大阪だと、梅田こそJRと阪神、阪急が接続していますが、阪急は最初は十三ですし、京阪は京橋、和歌山方面は南海が難波、JRが天王寺とてんでバラバラです。 昔は、自分のところでターミナルを発展させるのが主で、あまり乗り換えという発想がなかったのではないでしょうか 客も奈良、大阪、京都に行ければそれでよいので。

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