「燃えよ剣」を読んでいて引っかかったのですが、新撰組は当時、幕府、天皇に仕えていたと思うのですが攘夷になる事が最終目標だったのですか?

日本史 | 歴史46閲覧

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ちなみに、一々指摘するのも面倒なので具体的には言いませんが、下の回答は誤解が生じる恐れがあります。 参考にする際は裏を取ることをお勧めします。

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清川八郎が画策した朝廷の元で攘夷を行うという浪士組に同意せず、上洛する将軍のもとで攘夷をするために京都へ残留したのが新選組の旗上げメンバーっす。もともとが攘夷組織なんすよ。思想としては佐幕攘夷っす。 市中取締りは、将軍のもとで攘夷するまでの間に与えられたオマケの仕事だったんす。でも実際幕府には攘夷する気ゼロで、外国大嫌いな孝明天皇との公武合体のため、攘夷するそぶりを見せてただけ。 新選組はこの状況のなか、低待遇で治安が悪化してた京での市中取締りだけをやらされてたんす。 そしてこの時期、攘夷できない隊士の不満はつのり、脱走者も相次ぎ、芹沢一派を粛清して新選組を手中にした近藤勇も耐えかねて、ついには「新選組総代」という記名で、会津と幕府へ「市中取締りは我等の本意ではなく、攘夷できないなら新選組への解散命令を出してくれ」という届けを出してるっす。 でも市中取締りで一定の成果を挙げてた新選組を解散させることは、会津や幕府にとって損失になるんで、認められなかったんす。 これが池田屋事件直前までの、史実での新選組の実情っす。 この後池田屋事件で大戦果をあげ、その功績で待遇も良くなり、近藤も海外の事情に明るい松本良順と知り合ったころから書状に「攘夷」という言葉を使わなくなるんで、攘夷思想を変えたと推測されてるっす。 その後の新選組は、幕府側の治安組織・軍事組織に変貌していったっす。

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最初はそうだね だんだん開国となっていった だから伊東甲子太郎らが分離する時 新選組は攘夷をやらない。と辞めた人も居た

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新撰組結成当時、 全国の武士は、幕府側も長州側も ほとんどが「尊王攘夷」でした(^^) その後、長州藩や薩摩藩が、相次いで欧米列強と戦い、 その実力を知った事で「英国」と提携を結び、 「尊王開国」となりました。 時を同じくして、幕府側も「オランダ・フランス・アメリカ」と 提携を結び、軍艦や最新武器を輸入するようになったので、 こちらも「尊王開国」と変わりましたが・・・(>_<)