フィンセント・ファン・ゴッホの作品について。無名の画家だったにもかかわらず、彼の死後、その作品に超高値が付くようになった、そのいきさつを教えて下さい。

美術、芸術 | 絵画58閲覧

ベストアンサー

2

2人がナイス!しています

ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答ありがとうございます。参考にさせて頂きます。

お礼日時:7/31 21:32

その他の回答(2件)

1

ゴッホの人生を大きく変えたのは「日本の禅」との出会いからです。 初代首相伊藤博文の一番弟子とされた統一日本軍を創った鳥尾得庵(本来山岡鉄舟の一番の子分)がいます。明治19年(1886年)に欧州の軍備と産業開発を視察するために渡欧、横浜港の渡航船に乗るために前日から伊藤も滞在し、将来の日本の発展を語り合いました…? 夜通し酒を飲んでいたのかも知れませんが。 鳥尾は欧州では、伝統文化や宗教の後ろ支えで欧州が発展を遂げているのを見て、欧州各国の哲学会に入会して禅学者として迎えられ、また日本の伝統文化や仏教の廃止をするのではなく、それらを礎に経済文化は発展しているのを熟知しました。 欧州絵画は画家の眼で見た情景を描くのが基本でしたが、画家の見た目が自由自在(空から見た画、上下並行に見た日本画家の眼)な日本芸術の根本を禅意識から伝授、第二次ジャポニズムのスタートでした。 ゴッホもその自在な意識に大きな影響を受け、『禅坊主となった自画像』を描き、この絵は変革を如実に示しているとして米国のハーバード大学の美術館に納められています。翌年にはゴッホは版画に見る絵描きの眼の位置に注目し、『神奈川沖の船』(水面から見た画で波の下に富士山)の見方を作曲家ドビュッシーに伝授し、交響曲「海」を広大な意識で作曲させました。… ゴッホの開眼です。こうした禅意識の影響を受けているゴッホは日本人の郷愁をそそっています。 鳥尾は伊藤の後継者となるべき逸材でしたが、伊藤の要請した欧州の軍備や産業開発の踏襲を無視し、帰国しては貴族院議会で伊藤との反対政党を創ったために、日本史からは抹殺されてしまいました。

1人がナイス!しています