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2021/9/14 15:57

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秀吉の日本軍が「明軍」に勝つにはどうすれば良かったでしょうか? 豊臣秀吉は朝鮮に侵攻しましたが、その目的は「明」への侵攻でした。 しかし実際は朝鮮を征服はしましたが明軍45万に敗れています。

日本史 | 世界史133閲覧

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そもそも情報不足だったのでは? 対馬が適当なことやり朝鮮で戦争することとなったり、満州ルートで明攻めようとしてのちに清を建国するヌルハチ一味に追い返されたり、、と 講和条件も秀吉と明皇帝には違う条件が伝えられていたり、それが原因で朝鮮民衆を敵に回したりなどいろいろトホホ話があります。 私が思う勝てたかもしれないストーリーを二つ挙げると以下の通りです。 1. 女真族との共闘 当時清により戦力を分散させられていたヌルハチ一味と結託すれば勝てたと思いますが、、彼らは清と朝鮮に援軍を出す打診をしてます。 幸い連合軍側が断ったためことなきを得ましたが、女真族が参戦していたら普通に負けていたと思います。 2. 短期戦略としての戦闘ではなく長期の国策としての戦争 慶長の役で、朝鮮半島の南半分くらい、つまり今の韓国あたりまでをとったあとは地固めをするべきでした。これが一番勝てた可能性の高い戦略と思います。 慶長の薬においては、朝鮮民主は圧政の解放者として秀吉軍を歓迎していた趣もあります。 短期に攻め入ることを考えず、とりあえず大陸に足掛かりを作り食料の自前張達をするなどをしておけば勝てたのではないかと思います。

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戦術レベルでは明・朝鮮連合軍は日本軍の敵ではありませんでした。日本刀と鉄砲の威力に敵は敵いません。 明軍の大砲は攻城兵器として威力を発揮しましたが、野戦では弾が炸裂する榴弾砲ではなく、ただの鉄の玉なのであまり効果はありませんでした。 しかし補給の重要性を良く理解した秀吉軍も進軍すればするほど補給線は伸び、貧しい朝鮮半島では現地調達もままなりません。 又、米食の日本人には朝鮮北部・満州の麦・黍食の食事には耐えられず、切り取り次第と言われた諸大名達も、米を年貢に取れないので半島南部にまで押し戻された格好になりましたが、戦さに敗けたからではありません。 明らかに秀吉の戦略ミスです。 外洋に向く船を多数建造し、中国南方から攻め入り稲作地帯を押さえべきでした。 兵力の少ない日本軍で北京まで落とす必要はありません。

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戦闘では全然負けてませんよ。 秀吉が死んだから帰っただけですよ。 戦闘で負けたなら、皆殺しになってますよ。 名のある将は一人も討たれてません。 当時の日本の戦闘力は、武器も士気も練度も世界最高水準ですから。 大軍で包囲されても、切り開けます。だから負けた戦いもあるし、落城もしてるんだけど、逃げられたのです。 一方の明軍は、練度も士気も低い傭兵ばかりです。 到底勝負になりません。 明軍に勝つには、秀吉と家康も渡海して戦うことと、朝鮮統治をしっかりすることです。 ただ、日本人は異民族を統治する経験がなかったので、せっかく寝返ってくれた朝鮮民衆を最後まで味方にすることができませんでした。 ここは改良不能ですから、やはり難しかったでしょうね。 強いだけじゃあダメなんですよ。 長期的国益を考えるなら、南方の島々をしっかり調査して特にニュージーランドなどに植民するのが、現実的でしかも、正解だったでしょうね。

明には大砲がありましたので、それは効果ありましたよ。 騎兵については、地形的に、それほど大きなポイントになりません。 ただ、明に侵攻してからは、その速度に苦しんだ可能性は大ですね。 あっちは好きなところに攻撃集中できますんで。 しかし、根本的なところで、兵隊の資質が全然違います。 朝鮮は軍事を軽視して人数も、訓練も適当です。 明は、数は居ましたが、兵隊なんてのは、クズがあつまる傭兵ですから。歳とったからクビにしたら、盗賊になるからクビに出来ないのです。だから人数ばかり膨らんでるのです。 あとは、下っ端の兵隊の装備です。 あっちは、革製なんですよ。 遠くからの矢に耐えるだけなんです。 だから、接近戦闘で日本刀を相手にすると、ひどい目に会うわけです。本来護衛用の日本刀が、強力な凶器になるわけです。 いくら大軍で囲んでも、先頭の奴がどんどんぶったぎられたら、続くやつが居ませんよ。

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秀吉が出兵したのは正確には「明」に向けてになります。 理由は"貿易の申し出を明に断られた"ことです。 朝鮮は明と日本の属国状態でしたので「明に向かうために道を貸してね」ということで朝鮮半島を進軍していきました。 その途中で明との戦闘もありました。 日本軍は士気も高く統制も取れていてとても強く、明の正史(書物)にも「日本は強くあのまま攻めてこられていたら明に勝ち目はなかった」と書かれているくらいです。 日本が撤退した大きな要因は秀吉が亡くなった事です。 秀吉が亡くなるとまもなく日本の中で権力争いの動きが活発になり、とても明との戦争を継続できる状態ではなくなりました。 秀吉が生きていればすこし中国の歴史は変わっていたかもしれませんね

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質問者2021/9/14 21:01

朝鮮半島で日本側が築城した倭城の防御力はどれくらいでしたか? また、日本軍と明軍の間にはどれくらいの軍事力の差がったのでしょうか? 日本側が鉄砲で応戦したという話や明側の火砲や騎兵で苦戦したという 話もよく聞きますが… 詳しい解説をお願いします。

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名護屋城の建築費用と人員を船の増産に向け、大砲を積み戦艦とする。 直接渤海に入り込み、北京近傍に強制上陸して一直線に北京を攻める。 渤海での制海権確保に全力を傾ける。 火薬の調達を急ぐ。