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2021/10/17 23:28

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燃えよ剣の新選組は倒幕派ですか。それとも佐幕派ですか?そして新選組は何を目的に結成されたのでしょうか?教えて頂けたら幸いです。

日本史109閲覧

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新選組は会津藩の下で尊攘派志士の弾圧活動をした。佐幕派という より会津藩そのもの。会津藩は徹頭徹尾佐幕派。 燃えよ剣、栗塚旭さん最高よ!!

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新撰組は会津藩が募集した機動隊のようなもので幕府の一部みたいなものです。

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結論 佐幕派です 新選組(浪士組)結成の目的 幕末、過激な平田篤胤派の国学などに影響された土佐や薩摩脱藩などの、不逞な浪士が京で気に入らない人々を暗殺したり、押込み強盗などをするのを防ぐ為です (暗殺では土佐の「土佐勤王党」が有名です) ********* ただし、史実の近藤土方達の当初の目的は、あくまでも将軍を警護し、その先駆けとなって「攘夷」をする事でした 幕末当時は既に武士の地位も揺らぎ始めていたので「武士になる」事だけが目的だった訳ではありません 新選組の人々は時代の流れの中に身を投じて、「完全な攘夷などは無理だ」と知っていきました 重要なのは 佐幕派=決して反・尊尊王攘夷派などではなかった、と言う事です 幕末、孝明天皇はなかなか外国がお好きにはなれない帝ではありましたが、決して「幕府を倒し、朝廷中心の新しい政府を作って鎖国を続けよ!外国との繋がりを一切してはならぬ!」等とは思われてはいません むしろ過激な国学者平田篤胤の影響を受け 「幕府など倒してしまい、外国との繋がりは一切しない朝廷・公家・倒幕派の侍中心の新政府を作るべし!」と強く主張していた長州派等の強硬な公家が大嫌いな御方でした 特に孝明帝に強硬で失礼だったのが若い頃の三条実美です 嫌がる孝明帝に攘夷祈願の行幸を強制 「どうしてもお嫌だと申されるならこの三条が無理にでも御興にお乗せ致しますぞ!」と言う等、維新後の日本では考えられない程、帝を軽んじていました そして孝明帝は、幕府と会津藩を非常に信頼されていました お身体はとても壮健な帝でした ところがある日突然病に患り、崩御されてしまいます 次代の帝になられたのはまだ少年でいらした明治帝でした 明治帝の外祖父、中山大納言は倒幕派でした また途中まで公武合体派だった公家・岩倉具視が一度失脚したあと、薩摩との繋がりが強くなり、薩摩は長州と一時的に結びつきます 岩倉具視の実妹は孝明帝の一妃であり、孝明帝崩御の直前に御所には居なかったものの、御所内では依然強い影響力を持っていました… 孝明帝・徳川家茂にはいまだ暗殺の噂が絶えません 特に孝明帝の暗殺説は当時から噂されていました 岩倉具視はその黒幕の最有力候補だと言われていますが、孝明帝暗殺説の正否、暗殺の場合の黒幕など、正確な決着は歴史学者の間でもついていません いずれにしろ孝明帝の暗殺が疑われる突然の崩御後、1年ほどで世の中の何もかもが引っくり返ってしまい、いきなり一部の薩摩・長州・倒幕派公家中心の政府ができた、それが明治維新で、幕府も会津も新選組も「賊」とされてしまったのです 現代の感覚で言うと現政府の全てが倒され、全く違う人々が権力を握ってしまったような物、それが明治維新です しかし、新政府も結局は完全攘夷など出来るはずもなく、外国との不平等な関係もなかなか撤廃されず、日本はどんどん西欧化していっただけでした 倒幕の引金となった「平田派国学」は、維新後手の平返しに「古臭い物」として馬鹿にされ、忘れられていき、それでもまだ「平田派の国学」を信じる人々は自滅していきました それらの流れは明治の文豪 島崎藤村の名作「夜明け前」に詳しく書かれています 倒幕の中心になった人々も明治10年前後までには不平士族の反乱その他で滅亡 その後は次第に新しい人々が政治を担うようになっていっただけです… ちなみに弱体化していた幕府の改革は維新前から提案が出されていました

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新撰組は江戸時代末期(幕末)に幕府が京都所司代と京都町奉行だけでは京都の治安を守りきれないと判断し、京都守護職に就いた会津藩主松平容保が京都の治安を守るために設置し、治安維持活動、特に尊攘派志士の弾圧活動を行った浪士隊。同様の配下の京都見廻組が幕臣で構成された正規組織であったのに対して、新選組は町人、農民身分によって構成された会津藩預かりという非正規組織。 非正規組織だが会津藩の下で尊攘派志士の弾圧活動をした。佐幕派というより会津藩そのもの。会津藩は徹頭徹尾佐幕派。

会津藩主松平容保は禁門の変、池田屋事件などで長州藩志士たちを多数殺害したために、戊辰戦争において徳川慶喜より長州藩の恨みを買っていて討伐対象とされた。 戊辰戦争の会津の戦いの後に降伏した後も会津藩と長州藩の憎悪関係は延々と続き、今でも相手の藩の出身者との結婚だけは許さないという人がいたりする。 明治のころはお互いに八つ裂きにしてもしたりない、という位のひどい関係。