戦国時代の島津軍って最強って 言われるぐらいに史実でも強かったですか? 創作品じゃよく戦闘民族扱いされて いますけど…

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●「木崎原の戦い」(1572年) 日向国(宮崎県)の木崎原(現えびの市)にて 島津義弘軍300と伊東祐安軍3000との間で行われた合戦。 この時期、島津軍主力は大隅国(鹿児島県東部)の肝付氏と交戦中。 これを好機ととらえた伊東氏が日向国南西部の島津方の加久藤城を攻撃。 島津義弘が救援に駆けつけましたが周辺の島津軍は合わせて300の劣勢。 しかし義弘は事前に伊東軍に偽情報を流し加久藤城の防備が固い場所へと誘導した為に伊東軍の攻撃は失敗し付近の池島川まで一時退却。 伊東軍は援軍の肥後国(熊本県)の相良氏の軍を待つ事にしました。 しかし島津義弘は付近の農民たちに多数の島津軍の旗を持たせて待ち構えさせ、それを見た相良軍は戦わずにすでに本国へ撤退していたのでした。 伊東軍は10倍の戦力差がありその日が蒸し暑かった事もあり川で水浴びを始めるなど油断しきっていてそこへ島津義弘軍が奇襲。 そして義弘は一騎打ちにより伊東軍の大将の1人の伊東祐信を討ち取りました。 この時、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、伊東祐信の槍が義弘に刺さりそうになった寸前に自ら両前脚を折り曲げてその槍をかわさせてバランスを崩した祐信が義弘に打ち取られたという逸話もあります。 しかしこの後、小勢の為に義弘は一時退却。 これを受けて伊東軍も体制を立て直すために退却を始めました。 しかしその途中で伊東軍は付近の白鳥神社の僧兵軍と遭遇したり、義弘の攻撃を受けるなどして進路を度々変更させられました。 しかし小勢の義弘軍も戦死者が続出して退却し、その為にその義弘を討ち取ろうと追う形で伊東軍も木崎原に移動しました。 しかしこの時、義弘は残りのわずかな手勢で伊東軍に対して反転し反撃。 そしてその時、義弘があらかじめ伏兵として配置していた鎌田隊、五代隊が伊東軍に襲いかかりました。 これは結果的に島津軍の『釣り野伏せ』の形となりました。 伊東軍は総退却を始めましたがその退路先で義弘があらかじめ配置していた島津軍の伏兵に次々と襲われました。 その結果、伊東軍は総大将の伊東祐安を始め、幹部クラスの将128人、 それを含めた士分250余人、雑兵560人余りを失うという大敗北となりました。 伊東氏は日向国に「伊東四十八城」と言われる盤石な支配体制を敷いていました。 本城を中心としてその外側に48の外城及び砦が存在し、その重要地点の城には伊東氏の一族や有力家臣が配置され周辺の城に睨みを利かせていました。 ところがこの「木崎原の戦い」の大敗により多数の有力家臣を失ってしまった為に伊東氏は支配体制が崩壊し、やがて島津氏に圧迫されて日向国から大友宗麟の元へ逃亡する事になるのです。 ただしこの戦いにおける島津軍の生存者も50人程で実に戦死率は85%にもなり、島津義弘にとってもギリギリの勝利でした。 ●沖田畷の戦い(1584年) 肥前国森岳付近(長崎県島原市)にて 龍造寺隆信軍と有馬晴信・島津家久の連合軍との間で行われた合戦。 諸記録がありますがが、 龍造寺隆信軍60000~25000 対 連合軍8000~9000 天正6年(1578年) 当時の九州地方における3大勢力である大友・島津・龍造寺の中で最大勢力が大友氏でした。 ところがその大友宗麟は、日向国(宮崎県)の「耳川の戦い」において 島津義久・義弘・家久の島津軍に大敗し有力家臣を多数失い衰退に向かいました。 この大友氏の衰退もあり肥前国(佐賀・長崎県)の龍造寺隆信が勢力を拡大。しかし隆信の強圧的な統治や家臣の殺害はやがて離反を招きました。 天正12年(1584年)3月 肥前国島原半島の有馬晴信が龍造寺隆信から離反。 これに対して龍造寺隆信は自ら60000とも言われる軍を率いて討伐に向かいました。 これに対して有馬晴信は島津氏へ救援を依頼。 島津氏も有馬晴信への救援を承諾しました。 しかし島原半島へ渡る船舶の数が足りない事もあり、 結局派遣できたのは島津家久を大将とする3000程の兵だけでした。 そして到着した家久らは軍議(作戦会議)を行いました。 ところが…。 なんと圧倒的に劣勢なのにもかかわらず島津家久は迎撃策を主張。 有馬晴信の本拠地の日野江城への進撃路の途中にある有馬氏の森岳城周辺には湿地帯が広がっていました。 そしてその湿地帯の中を細い小道が通っていました。 この周辺は「沖田畷」と言われていました。 「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味です。 この沖田畷は湿地帯と深田の間に通された2、3人程度しか横に並んで歩けない狭い道で、ここであれば敵が大軍であっても横に広く軍勢を展開できないため小勢の島津・有馬連合軍からすれば迎撃するのにうってつけの場所でした。 そして連合軍は出陣してこの沖田畷周辺に布陣。 沖田畷は東に浜道があり、西に前山があり、海と山に囲まれた地形でした。 (つまり中央部の小道の他にも山側と海岸線にやはり小道ながらも迂回路がありました。) 連合軍はこの畷の中央部の小道を封鎖するように大木戸や柵を築いて守りを固めました。 そしてまず大木戸の守りに島津軍の赤星統家勢が50名という少数で配置。 伊集院忠棟が1000名を率いて海岸線に伏兵として潜み、 新納忠元も同じく1000を率いて前山の山裾に伏兵として潜み、 島津家久も森岳城の背後に伏兵として潜みました。 そして翌日、龍造寺軍の大軍が現れ、隆信は攻撃を開始させました。 そして龍造寺軍が攻撃を開始すると島津軍の先鋒の赤星統家勢は大木戸門より出撃し龍造寺軍と戦いますがすぐに大木戸まで退却。 もちろん龍造寺軍はこれを追撃。 大木戸門へと殺到となると思われましたが……。 ところが大軍が湿地帯の中に延びた小道に殺到した為に動きが取れず、大半の兵は胸まで埋まる深田の泥沼の中で身動きが取れなくなりました。 前日に付近の川を決壊させて水を聞き込んでいた為でした。 そしてそこへ今まで大木戸内周辺に潜んでいた連合軍兵が一斉に鉄砲・弓で攻撃した為に龍造寺軍は被害が続出。 そしてこれを助けようとした龍造寺軍の第2陣以降の軍勢らも同じく深田の泥沼にはまって大混乱。 この予想外の大苦戦に状況が把握しきれない龍造寺隆信は前線に使者を偵察に派遣して戦場の様子を把握しようとしました。 ところが戦場に着いたその使者は、 「何をもたもたしておる!命を惜しまず突撃せよ!」 などとと命じられてもいない事を勝手に前線の兵たちに触れて回りました。 そしてその為にそれを聞いた将兵らは 「俺たちに死ねというのか!」 と抗議しながらも更に無謀な攻撃を仕掛けた為に龍造寺軍の混乱は収拾がつかなくなりました。 島津方の伏兵からも弓・鉄砲で射撃され、龍造寺兵たちは深田の中で次々と射殺されて犠牲者が続出する中で、後ろから更に無謀な突撃を仕掛ける兵たちが押し掛けて来るので退却しようにも退却できずに次々と戦死して行きました。 また東の浜道方面と西の前山方面でも戦闘は行われていましたが、 やはり龍造寺軍の進撃は阻止されていました。 これに苛立った龍造寺隆信は、自ら全軍を督戦しようとついに本陣を前線方面へと前進させました。 そして龍蔵寺軍のこの混乱をを勝機と見た島津家久はついに全軍総攻撃を命じ、これを受けて島津軍の怒涛の突撃が開始されました。 「沖田畷の戦い」の開始直後の赤星統家勢の誘引囮作戦から始まった島津軍の『釣り野伏せ』の形となりました。 これに対してパニック状態の龍造寺軍はなすすべもなく、 やがて島津軍の川上忠智勢に龍造寺隆信がいる本陣に突入されてしまいました。 隆信の側近の近習たちも奮闘しますが勇猛でなる島津兵に次々と討ち取られて行きました。 龍造寺四天王と言われた1人の百武賢兼も40名の部下と共に力尽きて討死。 龍造寺隆信は覚悟を決めたのか床机に腰掛けたままでした。 (普段の移動は6人もの人数で担ぐ駕籠に乗っていたとも...) そこへ 「龍造寺隆信殿とお見受けいたす。川上左京亮忠堅、見参。御首級頂戴!」 隆信は島津軍の川上忠堅(川上忠智の子)に首を切り落とされてしまいました。 時に龍造寺隆信五十六歳。 『肥前の熊』と恐れられ猛威を振るった戦国大名のあっけない最期でした。 総大将を失って総崩れとなった龍造寺勢は本拠地の佐賀城などへと総退却。 島津軍の奇跡的大勝利でした。 龍造寺軍の被害は目を覆うばかりでした。 龍造寺四天王といわれる重臣たちも、皆、戦死しました。 木下昌直は鍋島直茂の戦場離脱を見届けてから島津軍に切り込んで戦死。 江里口信常は島津家久の姿を求めて斬りまくって島津兵の死体の山を築きますが、ついに取り囲まれて戦死 成松信勝は龍造寺隆信の戦死を知ると部下16名と共に島津軍に切り込んで戦死。 円城寺信胤は隆信の身代わりになり敵を引き付けようとしましたが戦死。 ※龍造寺四天王は5名の名があり成松信勝が筆頭としてその下に4人がいるとの説もあります。 更に鍋島直茂の実弟の龍造寺康房と小河信俊の二人も戦死。 島津氏が龍造寺氏に大勝して跡を継いだ龍造寺政家も屈服した事により、龍造寺家の傘下にあった国人らは一気に島津氏に寝返り、島津氏の勢力は一気に筑前・筑後(福岡県)まで拡大しました。 以後、九州は島津が最強の勢力として君臨し、と豊臣秀吉の九州征伐直前には九州制覇寸前にまでなります。 一方、当主の隆信と重臣を多数失った龍造寺は衰退し、龍造寺氏は重臣である鍋島直茂が国政を代行します。 そしてやがて龍造寺氏は鍋島直茂に実権を握られ事実上乗っ取られたのです。

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最強かは兎も角、かなり強いのは間違いないですね 有名どころはやはり沖田畷で龍造寺、耳川で大友相手に 少数で多数を打ち破り、一気に九州制覇に向けて駒を進めてますし 比率的には伊藤崩れに繋がった木崎原だと1:10で勝ってますね まあ援軍にやってきた豊臣には根白坂でボコボコにされましたが 豊臣も徳川も何だかんだで島津を潰せてないってところに 強さというか相手としての面倒臭さが現れていると思います

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