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絶望的な音楽と言えば? チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は最終楽章だけを聴くと物悲しげですが、絶望的とまでは思いません。

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回答(13件)

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チャイコフスキーの「悲愴」は躁鬱てだけでしょ? ロシアン女子と何人も付き合えば分かります。 ただレニングラードで聴いた時には、最後のコーダで弦の押し寄せる波に圧倒されながら、あ、これはチャイコフスキーの覚悟の上の遺書だなと思いましたね。 で、完全に「絶望的」な音楽なんてないんじゃないか? 一等優れた芸術にはバランスがある。 だから絶望的な部分があるにせよ「救い」も含まれているのでは? 浄化作用として。 「救い」まで行かなくとも「祈り」とか。 バッハ、モーツァルトなんて聴くといつもそう思いますよ。 だから何百年も聴き継がれる。 蓋し、名曲。 特にモーツァルト。 1つの要素では把握できない。 喜怒哀楽を超越してるな、コイツ!って(笑)。 バッハのピカルディ、長サンなんてのもあるけど。 大指揮者ワルターはバッハのそれを善の具元と言っていた。 中学の時に読んで「へー」って。 演奏する時に逆に意識しちまうじゃないか!笑 あ、「絶望的な」演奏ならあります。 https://youtu.be/k-PGQojkIF4 1939年4月2日、棕櫚の日曜日。 暗い日曜日(笑)。 別の意味で終わってる(笑)。 https://youtu.be/PvoQLKgssYk 指揮者の単なる醜い自己顕示。 絶望的にキモい(笑)。 芸術的に、コンセプト的に終わってるのはやはりアメリカのキノコ親父、4分33秒だか3分44秒て曲。 空の皿を並べたフレンチフルコースみたいな。 制作の放棄。 いや自らの才能の無さを悟ったのだろう(笑)。 さらに上が、 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13252963428 音がなきゃ終わり。 ったく吹奏思考てのは…笑 芸術でなく娯楽、つまりクラシック以外ならバランスなんて関係ないからあるかも。 感情の垂れ流し。 今から見れば大した事ないが、その、 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14247067609 流行家だけに時代とともに変わる。 芸術みたいな普遍性は薄い。 今は聞くだけで何人もの人を死に追いやるほどの力はない。 てか、音楽てのは絶望に向かないのかも。 音楽そのものが絶望の対義かも知れないし。 人は本当に絶望した時に音楽は聴かない。 沈黙を選ぶ。 「ダビデの沈黙」。 ダビデ王は黙って神の救いを待った。 神なんていないのに。 救いなんてないのに。 それこそが真の絶望かと(笑)。

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吉松隆:朱鷺によせる哀歌 Jehan Alain:Litanies https://youtu.be/PrH-zCJMb7s Francis Poulenc:Litanies à la Vierge Noire https://youtu.be/4Xu6PuqUJfw 以下を挙げるのは卑怯かもしれないけれど…… 林光:混声合唱のための『原爆小景』 三善晃:こどものための合唱組曲『オデコのこいつ』 https://youtu.be/WeeLhjhD5qs 荻久保和明:女声/児童合唱とピアノのための組曲『しゅうりり えんえん』 https://www.youtube.com/playlist?list=PLVOE-53O_KPRiON1ExPToupvXowQZCdZg

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肺の弱かったショパンの曲は時として絶望的な感性を与えます。 私はショパンが(革命・雨だれ)大好きですが 今 絶望という言葉で頭に浮かんだのは モーツアルトのドン・ジョヴァンニ 全幕聴くと絶望しないけれど メインの所が…モーツアルトが父親に捧げたとか無いとか 作曲者の背景が曲に影響するような気がします。 モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕 クレンペラー指揮/ギャウロフ https://www.youtube.com/watch?v=zt1la0Yb2ng

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オペラアリアでもいいでしょうか。 トスカよりカヴァラドッシのアリア「星は光りぬ」 短い曲で同じ旋律の繰り返しですが、ひたすら陰鬱で最後には絶望の叫びを残して終わります。 この時点ではカヴァラドッシは逃れられぬ死に絶望しています。劇中では直後にトスカが助けに現れ、このアリアと対照的な優しく慈愛に満ちたアリアO dolci maniが歌われますから、この差がたまりません。 しかし星ピカを単品で聞くと、絶望しかありません(笑) 和声的な話をすると、悲しげな曲って部分的にでも長調に転調したりして絶望より「儚さ」みたいな表現をする事がありますが、この曲は一切ありません。。一曲通してひたすら重苦しいです。

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オネゲルの交響曲5番です。 この頃オネゲルは口癖のように「世界が終焉を迎える」という意味のことを語っていました。「世界」とは戦後の世界情勢ととらえることもできますが、ここでは音楽の世界のことを言ってると解するのが妥当でしょう。作曲者のこの考えは、おそらく20世紀音楽が既成の枠をどんどん破壊して無秩序状態を作り出していることへの嘆きと考えることができます。 とりわけ12音音楽に対しては厳しい批判の目を向けていました。 この曲は悲劇的な1楽章で幕を開け、中間楽章では軽快なスケルツォが挟まれていますがここでは12音技法のキモのひとつである「主題の反行」が行われています。これを12音によらず作ったところに作曲者の皮肉が込められています。 最終楽章は意志的な力で立ち上がろうとする激しさを持ちながらも最後は何かに打ちのめされたかのような諦念さえ感じさせる弱音で終止します。 この曲はラストが全て弱音のReで終わるため「3つのレ」とも呼ばれています。Reは音階のレと同時に「王」を意味するフランス語でもあるそうです。 作曲者は別にこれを意識していたわけではない。と言ってますが果たしてそうか? 最後のレ音にはティンパニの音を被せてもいいと指定されています。 このことから類推しても何の根拠もなくたまたま偶然レになったとは考えにくい。作曲者の意図が案じられます。 レと王が一致するのも単なる言葉遊びだ、他意はない。と言ってますがこれもどうか? 「3人の王」に何らかの暗示を含ませた気がしてなりません。 「3人の王」は新約聖書に出てくる「東洋の3博士」のことであります。 キリストの生誕を訪問した3人の賢人。 キリストの生誕は始まりでもあり、終わりでもある。何かが終わり、何かが始まる瞬間であります。 何かこの故事にひっかけた黙示録的意味合いを持たせたのではないかと言う気がしてなりません。