ゴータマー・シッダールタは菩提樹の下で瞑想により 悟りましたが 我々も同じように菩提樹の下で瞑想しても意味ないですよね? それよりも シッダールタ(釈尊)の悟りを知ることが重要ですよね?

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2021/12/8 10:55

>>我々も同じように菩提樹の下で瞑想しても意味ないですよね? そうですね。真実は・・・ 釈尊は「燃灯仏」より、「悟り」を授けられています。 そして、釈尊は「迦葉」に授けています。 その時の言葉が「教外別伝、不立文字、以心伝心、微妙の法門を付嘱す」と言うものです。 釈尊は「悟り」と悟りを授ける権限を与えています。 「悟り(天機)」は天意(天命)により、「悟りを授ける権限をもった老師より授けられます」 悟りは「安心立命の法」とも言いますが、この「立命」とは、この「天意=天命」を言います。 >>(釈尊)の悟りを知ることが重要ですよね? 釈尊の「真の悟り」とは・・・ このような解釈があります。参考になれば幸いです。 これは、「道理」による解釈です。 道理とは、あらゆる「真理」を網羅した「道」の教えで、五大教の教祖や聖人と言われる方々が最後に出会った道です。 「真理」とは、天理、地理、物理、性理、倫理等、時代や国が代わっても、絶対的に正しく、変わらない教えです。 神代の時代から人類へ継承され、今も連綿と続くものです。 「悟り」は、その中の「性理」で解き、本来の宗教は「倫理」を基にしたものです。 この事を釈尊は「諸法無我」諸々の救いの為の教えの中(諸法)には、我(霊)の教えは無いと言っています。 この霊は、永久不滅で、真我です。 これに対して、肉体始め、目にするものには、永遠性がありません。 しかし、人々は肉体を自分と信じ、その物欲等に囚われ奔走しています。 その事への戒めの言葉が「諸行無常」です。 「悟り」は、本当の自分(我)である「霊」の救いです。 その救いとは、霊が輪廻を解脱し、故郷である彼岸、極楽天へ帰り、輪廻の無い永遠の生命を得る事です。 「悟り」は、その為に必要な妙法です 悟りは、自分で開く事は出来ません。そこには、天意が働きます。 霊の現世、前世において、善行による積徳や、公的な貢献が認められると良縁に出会い、悟りへ引導されます。 悟りは、自己的な勉学や修行にて、内面的、精神的に「何かを理解する」と言うものではありません。 私達には「心」があります。その正体が「霊」です。 「霊」は遥か昔、祖神から生まれた「神の子」で、修行の為に、極楽天より降されました。 しかし、形が無いため磨く事が出来ません。 その為、磨く道具として、肉体(仮体)が与えられました。 この天界そして地球は、人が生活出来るよう作られた修行の為の仮の世界です。 私達の肉体には、「霊」の出入り口が五ヶ所あります。 出入りが出来る「正門=微妙の法門」が一つ、そして此処が閉まっている時の出口としての四ケ所(四門=眼耳鼻口)です。 「悟」の字の、「忄」は霊の事で、「吾」は、我、そして、五つ目の口の事です。 「悟り」とは、我が霊の在り場所を知る事です。 その場所より、肉体に宿り、生命を誕生させます。 しかし、その場所は直ぐに閉まります。 それは、その場所こそ、唯一、極楽天へ通じる正門だからです。 ここを再び開く事を「悟りを啓く」と言います。 霊が宿りませんと死産となります。 そして、その霊が寿命を終えた肉体から抜け出すのを「死」と言います。 死を恐れるのは、霊は感覚を持ち、不滅で輪廻し、その行き先を知るからです。 肉体に感覚が有るのでありません。その証拠に死産の肉体には感覚はありません。 悟りを啓けば「極楽往生」出来なけれは、奈落で霊の浄化に努め、次の転生の機会を待ちます。 「霊」が私達の生死を左右します。 この霊こそ、本当の自分、我(吾)です。 真の故郷、彼岸、極楽天へ帰る為に、人に宿り、正門(微妙の法門=般若の門)を経て帰天します。 「人生」人が生まれ、生きる意義、目的は此処にあります。 しかし、人は肉体を自分(我)と誤解し、欲に奔走する別の生き方をしています。 その為、その戒めを説かれたのが「般若心経」です。 「般若心経」では、肉体の意義、そして、極楽天(涅槃)悟りについて説かれています。 「悟り」は、三つの秘法からからなります。 迦葉尊者に授けられた時は、教外別伝「不立文字、以心伝心、微妙の法門」と言われています。 般若心経の中では「三藐三菩提=三つの小さな悟り」「是大神呪、是大明呪、是無上呪」このように言われています。 悟りは「天機」で、そのものズバリを公言したり、書物に記すことが出来ません。これが「密教」の由来です。 それ故、大仏開眼、神眼を開く、眼横鼻直と言われたり、大仏の額に「白毫」を印たり、ダルマに目を入れたりと、謎掛けをされるのです。 「天の岩戸開き」や「三種の神器」も、悟りの比喩です。 釈尊の本来の教えは「仏道」と言います。 この「仏」とは、霊が肉体に宿ると「人」、そして臨終後、肉体から抜けると「仏」又は「如来」と呼称を変えます。 この「仏」に成る事を「成仏」と言います。 人は「霊」と「仏」の間に存在するから「人間」と言います。 霊は「神の子」で、神と仏の本質は同じです。一度肉体に宿れば、「仏」と呼ばれ、その行状(輪廻)を説かれたのが「仏道」です。 この「仏(霊)の輪廻転生」を終え、故郷の極楽天へ帰る事を「解脱」と言います。 私達は皆、自らの肉体に「神の子=菩薩=仏」を宿しています。 「菩薩」とは、「悟り」を求め修行する者を言います。 これが「観自在菩薩」の正体です。 私達の体には、霊、魂、魄の三つのたましいが宿っています。 「霊」は、極楽天で、創造主から生まれた「神の子=菩薩」で、永久不滅で、理性の心で、悟りを得れば、極楽往生、そうでない者は輪廻転生します。 この霊について説いたのが、本来の釈尊の教え「仏道」で、現在の仏教は大乗仏教の教えで、釈尊の直伝と違います。 「魂」は、私達の精神(感情の心)で、肝臓に宿り、肉体の成長、維持に勤め、肉体の誕生で生まれ、臨終で消滅します。 「魄」は、肉体の誕生で生まれ肺に宿り、臨終後も49日この世に留まります。49日があるのはこの為です。 この魄は、怒りの心で、怒ると、息が荒くなり、般若の面の如く、人を鬼化します。 私達は、この三つの心の葛藤の結果で行動します。 理性の心が勝てば、善行へ、魂魄が勝てば、悪行へと走ります。 現在は、魂魄の鬼心が強く、本来の修行を忘れ去っています。 この修行とは、五常(仁義礼智信)五戒を実践し、善行を行い積徳する事です。 この心を動かすのが、六根(眼耳鼻舌身意)で、それらの作用が五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)です。 眼耳鼻舌身(肉体=色蘊)で得たものを、魂(心)が受けます(受蘊)、そこで、色々な想いと霊との葛藤があります(想蘊) その結果、行動します(行蘊)、そして、その結果を認識します(識蘊)。 その結果、手にできれば、次への「意欲」となり、手に出来なければ煩悩となります。 これが六根の「意=精神」です。 五蘊は八大苦の一つで「肉体と精神の作用による欲」の事です。如何にこの欲を小さくするか、これが人(霊)の修行でもあります。 釈尊の教えは、悟りを開かれた前と後で違います。前の教えは、四大苦からの解脱、所謂、肉体の救いで、後は霊の救いです。 しかし、それを知るのは、迦葉尊者、アナン尊者等の正統な継承派で、現在も弥勒仏の下生により継承されています。 他は前の教えしか知りません。それ故、肉体を我と解釈します。 現在は末世で、宇宙規模の大災難を前に、ある程度、修行が出来た者へも悟りの道は開けています。 すでに、その前兆は世界規模で起きています。 ここ2、3年の大洪水、台風の激しさがそうです。 その為、弥勒仏が下生され、衆生済度されています。 現代漢字の元は象形文字ですが、 これは、5000年前、黄帝の史官の倉吉によって、鳥の足跡をヒントに創られました。 黄帝は、鍼灸を考案し、人々に教えた方で、その功徳により、悟りを授けられています。 「ユンケル黄帝液」の黄帝とは、この方から取ったものです。 それ故、漢字には「悟り」を表す物や関連するものが数多くあります。 当時は、八卦を完成させた「伏羲」や神農本草経の「神農」も、その手柄により、悟りを得られています。 悟りは求める程離れて行きます、善行による前世からの積徳の先に在るのが悟りです。 「悟りの縁」は向こうからやってきます。 良縁に出会われる事を祈念致します。 下記にて、釈尊の真の教えを知る事が出来ます。 (参照 悟りと般若心経 谷神一 著書)

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正解 お釈迦様はこの地球に自分の浄土に宿縁のある人を救いに来た役目に気づいたって事が真相 救う役目を悟ったって事だか、我々は救われる側なのでそんな役目はないので、悟る意味はないしお釈迦様が何を悟ったかを知る方が重要なのは確かだよ

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ゴータマの悟りからオカルトと宗教性を排除するなら、禅定と言うプロセスが正しく行えるなら、基本は誰でも同じ事が出来るはずです。 苦しみは縁起により生じます。 仏教はその縁起を知るための哲学です。 正しく物事の本質を見極めて、その意識をコントロールする事(止観)ができるなら、誰でも悟りに到れるはずです。 例えば、死を間近に迎えつつある高齢者にとって、その恐怖感情は若い人のそれより小さいと言われます。 歳を重ねていくなかで死期の近さを認識し、次第に受け入れて行ったからです。 長い年月を掛けて自然と禅定を行ってきたことになります。 高齢者は、若い人に比べると生きることへの執着が少なく、ある程度死を受け入れています。 これもある種の悟りと同じです。 悟りとは、諦めでもあり、現実を受け入れる事でもあります。

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ゴータマは八正道でないと悟りを開けないと言いました。 八正道の正定とは瞑想で禅定に入ることです。 ですから瞑想なしで悟りを開くことも、知ることも出来ません。

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どう生きるかが大事なんじゃない? ゴータマ・ブッダの生き方の中に習慣としての瞑想があったのよ。誤解を恐れずに言えば、毎日ストレッチしたり1万歩歩く習慣のようなものだ。 経典を読んで理解するだけでは、言い換えると頭で理解するだけでは何にもならないだろう。