終戦後帰還した人たちの当時の状況について知ってる人に質問です。

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今まで見聞きしてきたことが本当なのは事実としてあったんだとわかりますが悲しい現実ですね、戦時中が悲しくないわけないので当然ですが。 原爆投下された広島、長崎と地上戦の現場になった沖縄ではまだ健在の人たちが学校などで話をしてますが高齢化でへってきてますね。生の声をきける年数がもう限られてるきてる中、まだ残していくべきものがあると思うんですが残りの時間どれだけ何をききとり、当時のまだ未発見資料がみつかるかですね。当時の一般人の生活の様子、何を思い戦争をみてたかわからないことが多いので、個人からえられる情報がまだ十分でないと感じます。そうはいっても辛い過去を進んで語りたい人はいないと思うので難しいですね。 時代が違っても言いたいこといえないのは今も同じですね、安倍政権で共謀罪法勝手に成立してしまい76年前に逆戻り。なんで戦争ない時代に治安維持法また作るっておかしいです。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

返信も色々回答下さりありがとうございます。 中・ロシアのような社会主義はどうかと思いますが日本は社会主義のいいところとりいれた感じですかね。 日本人は1億総無責任社会、本当にそう思います、それと、この国で変化を求めるなら内側からは決して変わらない。外から黒船が来航するしかない。思わぬ事にきづかされました、また黒船が来航する日がきたら今度はどうなるか見当つきませんが変わるには大きな機会が必要ですね。

お礼日時:1/24 1:21

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山本武『陣中日記』が参考になると思います 8月15日でガラリと考え方が変わります また、戦争中は都合の悪い報道はしないわけです 家族は負け戦でも生きているのではないかと思っているわけです それが死亡しているわけですから、考え方も変わります PDFからの抜粋ですから、文字化けしています 八月九日 重大ニュースありとの伊藤見士君の話に、取り敢へず午後七時ラ ジオの前に行く。放送員の声やおそし。寸七時の報道であります。 ソ聯は不法にも越境し、我が方に攻撃して参りましたL 「大本営発 表、八月九日十七時。八月九日O時頃、ソ聯軍の一部は、東部及 西部満ソ国境時より攻撃を開始せり。又航空キの少数キは、朝鮮 及北満国境を越へ攻撃し来れり。二、所在の我が日満部隊は、自 衛のため目下之と交戦中なり。関東軍発表、八月九日三、三O 驚くべき報道、息詰り、胸詰る思ひ。あ〉遂に赤鬼スターリン、 (味) 毒牙を我に向けしか。弱身につけ込んで来るソ聯。米ソ戦ふか等 言ふ者ありしが、実に笑止千万、矛は我に向けて来たれり。米・ 英・ソ・重四ヶ国を相手に廻して、果して勝ち抜き得るか。必勝 の信念を今更言っても始まらない。我国の運命遂に来るところま で来たるを思ふ。 政府は何故我々国民に「最後の斬込を敢行、一億玉砕すとも一人 でも多く米・英・ソを倒せ」と叫ばないのか。 【この時は、一億玉砕とか言っていますね。もちろん、広島長崎の原爆は知りません。詳しく報道されていないのでしょう】 【8月15日】 銘記せよ! 大日本帝国新しき出発の日 十二時半より畏くも天皇陛下、親しく玉音以てラジオ放送遊ばき る旨拝し、単独の軍装に広信を正して、尻町恥宕ラジオの前に集合 する。流れ来る君が代の吹奏、次いで恥昨、胸せまる畏くも勿体 なき陛下のお声。 唯感激に肱恐yc、仰せらる〉言葉も聞きとれず。時々漏れ拝諒す る、朕ハ汝等国民の哀惜をよく知る、戦ひに蟻れし勇士の遺族、 傷ける勇士をいたわり、等の意味を知るのみ。荘重なる御玉音遂 に消え、再び起る君が代の楽。次いで鈴木首相の内閣血口諭、一語 一語聞へてくる予期せざふじ)ツダム宣言受理、米英に対する和を 乞ひし意味判り、アッと驚くと共にグッと込み上げてくる熱い涙。 止めどなく流れる涙は拭ひもやらず、口惜しき、悲しき、怒り、 人前もはばからず、ワッと声を上げて泣きたい心。 開戦以来四年に亘り心血をそ〉ぎ、兵士も国民も、戦友の屍を乗 り越へ乗り越へて戦ひ続け、その間戦に職れしもの其の数を知ら ず、傷つけるもの又無数に。更に国土比舵一ヱと化し、無事の老幼 婦女子に至るまで、F火に壇れしもの実に無慮。然し、かくなる は己に覚悟の前、国民全滅すとも降伏はすまじ。民族の名誉にか けて、日本国民の偉大きを世界に示して、一億玉砕をと誓ひしに、 あ〉事遂に此処に至る、又何をか言はん。 而も、ラジオを通じて報ぜらる〉かくなりし理由、状勢。ソ聯の 参戦、原子爆弾使用、米英に和を講ぜざるを得ない戦争の現状。 特に陛下の民草を思はせられ、人民の此の上の苦しみを見るに忍 ぴず、朕は例ひ砿野に屍を曝すとも厭はねど、民草が可愛い〉。 人類を救ひ、世界の平和を速やかに回復するため、忍ぶべからざ るを忍び、耐ゆべからさるに耐へ、敢へて国体の護持の最後の一 線を残して、無条件にホツダム宣言を受け入れる事になった。 大詔は既に即発あらせられたり。 五) 我等国民の向ふ所、自ら柄呼として明らかなり。詔承必謹、神州 の不滅を信じつえ皇国国体の護持を守り抜き、誓って此の国難 を克服して、偉大なる大日本帝国を一日も早く回復せねばならな い。忍苦の生活、もっと/¥苦しい生活、更に劇しい難難辛苦が 来るであらう。然し、真に偉大なる民族としての、新しい出発の 大号令は下された。いぱらの道を切り開き、皇国を復興する事こ そ、生き残った我等に課せられし最大最高の任務、皇国護持の最 後の一一線を残して、今日の日本はもう昨日の日本に非ず。 前途に横はる冷厳なる我国の姿を想ひ、明日から始められる、幾 多の悲しむべき敗戦国の歩みを思へば、唯泣けてくる。 総べてを忍ばれ、あらゆる忍苦を克服して、一棋を握って、国民の 災状を見るに忍びず、と仰せられて、矛を収められた陛下の御仁 慈の程、御心中の程、拝察するだに畏ききはみ。民草の至らざる が故に、今日の難を招来せし罪、万死に価す。然もお叱りもなく、 此の有難きお言葉、誰か皇恩に泣かぎらん。大君の御徳広大無辺、 大君の榔恩、日本国に生を享けし有難きを、今日ほどはっきりと 感じた事は始めてであった。 一億玉砕をと張りつめた心が、一度に今日の聖断に、一種計りき れぬ衝撃を与へ、一時は唯ポンヤリ、夢に夢見る心持。 神代此の方、一度も敵に負けた事なき我が大日本。而るに今日の 敗戦。吾等が父祖が国を堵して戦ひ、獲得し、身を細らせて肥や し、築き上げて来た台湾も、満州も、朝鮮も、皆敵の手に。而も 樺太まで。幾十万の英魂眠る、我血を流した支那大陸も、又蒋介 石に返さねばならぬ。思へば/¥悲しき事実。 本晩は、命令受領のためFに宿営す。蚊が一匹、二匹、耳元でプ lンと音を立て〉飛び、心はあれこれとかきめぐる、悲しき、口 惜しき。眠らんとすれば尚眠れず、十一時、十二時、一時、二時、 ウト/¥と居眠りの如く、一一一時を知らずD 四時に目が覚的、昨日 は夢だったかと思へど、間違ふ事なく現実だ。 忘れられない日、八月十五日。 【一億玉砕から思考停止状態になったんでしょうね】 九月四日 帝国文を収めてより早くも二十日、去る二日には横浜沖に於て、 我等の忘れ難き、屈辱的無条件降伏の調印式が行はれ、ラジオの 声を開き、当時の光景を偲び、拘に悲しい思ひに胸せまり、蕗に 肇国以来始めての帝国敗北の事実は、現実に現はれて来た。大東 亜地域の我忠勇なる将兵は、泣いて武器を捨て、敵国の軍門に下 る。比島敗戦の将マッカlサlは、今堂々の米艦隊を引具して横 浜に進駐し、幾万の米軍は神州に上陸して来た。空には敵機が我 物顔に乱舞して居る。あ〉此の飛行機で、我等の同胞は恨を呑ん で蟻れて行ったのだ。東京都始め、進駐地区の国民の無念さは如 何ばかりだらう。 今日此の目、我等は八丈島に於て休養日が与へられ、兵団派遣の 鉄壁慰問団を迎へて、一日面白く暮した。過ぎし事を如何に口惜 しがって見ても始まらない。我々は此れから敗戦の巷から立ち上 って、更に平和と文化に恵まれた、新日本を建設して行かねばな らないのだ。一保をかくして笑顔を以て、新しき日本再建に遁進せ ねばならない。今日一日、総べてを忘れて楽しく暮す。 【日本再建に切り替わっていますね】 陸軍と海軍と住民 八丈島来着より蕊に一ヶ年、斗魂烈々、八丈富士山上大日章旗を 翻すの日を夢みつ〉陣地の構築に専念し、皇国の勝利を祈念し つ〉戦ひ来った此の一年間。良しにつけ悪しきにつけ、いろ/¥ の思ひ出、印象多き中に、私の頭に最も不快にして、忘るべから ざる最も忌むべき思ひは、我等陸軍と海軍と、そして海軍軍属と して疎開せずに居残って、威張りくきった八丈土民、チャン (ロ脱カ) コの如き此の住民の関係である。 そも/¥皇国の惨敗の原因にも多くあらうが、何と言っても一番 負けたのは、国力の不足とは言ひ乍ら、我海軍ではなからうか。 もっと制執権を振って居たら、国内軍需産業握興し、航空機の生 産も素晴しき成果を示したであらう。あんなにもろくサイパンの 玉砕もなかったであらう。あんなに本土が炎土とはならなかった であらう。原子爆弾も使用し得なかったであらう。吾等は全般的 な事は判らない。然し、此処八丈に現はれた海軍当局のやり方の、 如何に悪らつであり、五日等忠勇なる、黙々と働く陸軍を苦しめた 事か。私は永久忘れる事が出来ない。 海軍は海上に於ける戦闘任務を有し、陸軍を転送し、陸軍の補給 を完全にし、後方の憂なく、安心して戦へるやうにするのが、最 も大事な努めではなからうか。 然るに此処に現はれた海軍は、河童が岡へ上って唯自己の食料を 運搬し、自己の酒や煙草を運ぶ事のみ船を使用し、全く陸軍に協 力して居らぎるのみか、その優れたる給養を誇示し、海軍々属を 〈非国民的色彩濃厚なる、疎開せず、陸軍の邪魔をせんとしたる 村民〉を多数徴発して、日夜めならべ共を会館に連れ込んで酒を 飲み、生産隊員の生産物は独り海軍のみで使用、ぜいたくの限り (陸脱) を尽し、陸軍々人を見る事、乞食かどろぽう呼ばり致し、我等軍 に対しては菜葉一枚供出せざるのみか、腹が空り、野菜ほしさに (昆〕 時折野荒し〈勿論最も悪い行為〉の不心得兵を、神棒を持って大 勢のニイヤ共が袋叩きにして捕へ、あたかも此れが全陸軍の行為 であるかの如く官一伝し歩く等、此の悲しき情なき、憤り。 陸軍のやり方は地味であり、将来補給なき場合を顧慮して、極度 に糧株を切りつめて居る関係上、か〉る悪徳漢の、無智な兵の出 るは、幹部の指導良ろしきを得ず、その責任は痛切に感ずるも、 一方に於ては美味しいものを満腹し、酒を密造し、煙草を密培し、 ダイナマイトを以て捕魚を公然と行ひ、海軍の尻馬に乗って陸軍 を侮辱せる此の島の土民に対しては、一方に恩義のある人も多い けれども、最も不快な印象として忘れる事は出来ない。 【戦争に負けたのは海軍の性だと言っておりますね】

九月十五日 戦争終局の大詔を拝してより早くも一ヶ月、先月今日十一一時の御 放送を拝聴した時のあの感激、驚惇未だ生々しく胸裏に匙って来 ?Q。 一ヶ月後の今日既に米軍は本土に進駐し、敗戦国の寂しきの中に も平和の光は漂ひ始めた。戦争犯罪人として、東条前首相以下沢 山の元勲達が米軍に引き渡され、東条首相の自決未遂、杉山元帥 夫妻の見事な自決、小泉厚相の自決等々、昭和の悲影は続々と報 ぜられて行く。毎日聞くラジオの声も、今では全く束縛せられて 米の声そっくりだ。南方諸地域の戦友たちは、三年も経たねば帰 還出来ないと言ひ、満州の軍官民は、ソ聯の虐待下にありと聞く。 敗戦国のみじめきは、刻々深刻化されて行く。 きて戦争終了後、私の気持はすっかり変ってしまった。あの頃は 悲壮な覚悟の下、再び故郷の土を踏む時なきを思ひ、八丈玉砕の 時は天晴れ奮戦の後、恥ずかしからぬ最後をと、 【続く】

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帰還兵問題はどの国にも共通しています。 戦勝国の英米ですらその扱いは社会問題化した。 どころか、現代でもイラク帰りの兵士のPTSDや失業は解決されていない。 しかし、悪い話ばかりではありません。 私の祖父はロシアに抑留されて、帰った頃には徐々に復興の機運が高まりつつある頃でした。 この時一番問題になっていたのは朝鮮進駐軍という武装在日朝鮮人の集団でやりたい放題だったそうです。 彼らはありとあらゆる犯罪を公然と行なっていて、焼け野原の駅前や幹線道路沿いの土地を勝手に占拠し、勝手に建物を建てて所有権を既成事実化して行きました。役所の書類も燃えて消失していたからです。 そのため各地で地元のヤクザを中心とした帰還日本兵の自警団が組織されて、朝鮮進駐軍と戦った。 警察がまともに機能してなかった時代です。 祖父はその自衛団に加わって随分と頼りにされ、その後死ぬまで地域の顔役のような扱いでした。 また、戦場では自分でなんでもしなければならないので、帰還兵はとても器用で自分で家を建てたりインフラ整備も自分でやれました。 戦後、爆発的に増える個人企業・中小企業は彼らが作ったのです。 国も徐々に支援の用意が整い、現在も残る中小企業優遇制度はこの時期に整備された。 鉄などの資材の供与はどの国でも行なっていて日本だけのことではありませんし、祖母や母が言うには、戦中のギリギリ、昭和18年頃まで生活はそれまでとほとんど変わっていなかったそうです。特に飢えたと言うことも無かった。 本当に戦争してるんだろうか、というどこか現実感のない状態だったそう。 しかし19年に入ってから急にあちこちで誰それが死んだとかダルマになって帰ってきたとか、一度帰還した兵隊がすぐに南方に再召集されたとか噂が広まり、空襲も始まって戦況が悪化してることを肌で感じていたそうです。 戦中、帰還兵は戦地の状況を語ることは禁止されていましたが、母の叔父が船に乗っていて沈んで死んだ時、同乗していた友人が遺品と一緒に持って帰った情報で負けを確信したといます。 原爆投下も噂で詳細が流れ、数日後にはかなりの内容を知っていたようです。 ピカドンとピカドンと子供のたちの中で流行語になったといいます。 なぜかその噂を語る時、大人は妙に明るい雰囲気だったそうです。 強がっていたと言うわけではなく「なんかとんでもねえ新兵器出してきた!アメリカはやっぱりすげえ!」と言う子供ぽい、どこか他人事の雰囲気だったそう。 当時から、アメリカがとても強い国であることは皆知っていたんです。 少し、敬意のような空気があったといいます。 なので、実際に終戦したときは「ああ、やっぱり」と言う感慨しかなかったいいますし、アメリカ兵がやってきても歓迎する人が多かったんだそうです。 別に日本政府に対し恨みがあったとかじゃなく、素朴に「アメリカ人強かっこいいなあ」と言う感情らしいです。 むしろ戦後の混乱の方が大変でかなりの辛酸を舐めたらしく、亡くなるまでその時のことはほとんど話してくれませんでした。

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この質問投稿して数日後、そういえば当時の帰還兵もPTSDあったはずだけど当時は調査されてないし精神疾患になり生涯病んだ人もいただろうけど話をきいたことがないのでようやくそれらの調査始まったのは湾岸戦争の時からでしょうか。 イラクへ派兵され帰還後どうなったかが記事や記録としてあるようですね。 朝鮮進駐軍という武装在日朝鮮人の集団の話は初めてしりましたが日本が占領した時につれてこられた人たちですか。 戦時中の話、ご家族から直接きかれたのは今となっては貴重ですね。私も少し祖父母からきいたことありますが詳細は覚えてないようでした、というか思い出したくなかったのかも。 当時の新聞まだ途中までですが1943年も見 ました。 全国紙の東京版なので広告が沢山あり普通に生活を送っていたことがわかります。まだ1944-45年をみてないのでこれから閲覧してどれだけかわったかどうなっていったかみていきたいです。

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オンラインで探すなら国立国会図書館のデジタル資料なら古い文献でも比較的保存状態のよいままデータ画像として残されてるのでさがしてみてはどうかな

試しに検索してみましたが「太平洋戦争 暮らし」と検索しても無関係な資料が表示され思うようにでてきません。 当時の一般人の暮らしや戦争に対し何を思ってたかなどしりたいんですが何かいい検索ワードあれば提示して頂けますか。