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人生やめたいです。どうも。中学2年生女子です。

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回答(27件)

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私も小4~中3までいじめられてました 不登校にはならなかったけど、ずる休みはちょいちょいしてました 高校はクラスの9割女子でした 私を嫌ってる人もいましたが、いじめ自体はなくなりました、 はじめて修学旅行が楽しいと感じました 高校は少し地元から離れた所に行ったり、イメチェンしたり、、何か変わるかもしれません 高校卒業後も男子と話すことはずっと苦手でしたが、20過ぎて彼氏もできました 将来何が起こるか分かりません 明日、家を出たら車にひかれて死ぬかもしれません 今を悔いないように自分の人生を生きてください

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お礼に相手にとって嫌なことをやり返した方いいと思います! 頑張ってください。あなたの幸運を心よりお祈りしています(*^_^*)

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まだ人生をやめてはいけません。 なぜなら、あなたには、まだやれることがあるからです。それは今の状況を脱出するためにやれることです。 まずあなたの状況を冷静に分析しましょう。 あなたの質問内容を見ると、あなたを守ってくれるのは、あなたしかいません。 これは普通の人からするとかなりキツイ状況です。 大人でもキツイです。周りに理解者や味方がいないということは、大人でも辛いです。 だからあなたが辛いのも当然です。よく耐えていると思います。 そのような状況でどうすればいいのか。 最初に言いましたが、今のあなたの味方はあなたしかいません。 大切な自分を守るための行動をとりましょう。 具体的にいいます。 まずあなたは、どうすればいいのかを悩んでいるということは、まだ、どうにかしたい、今の状況をよくしたいと思っています。 ということは、今の状況よりも、未来をよくすることはできます。 前提条件がしっかりとしているので、あなたは自分の未来を必ずよくすることができます。 ただし、そうできるのはあなただけです。親でも、学校の先生でも、友達でもありません。あなたしかいません。 それは本当に同情するほど可哀そうなことですが、受け入れるしかありません。 そして次に、あなたはここで質問をしているということは、インターネットを使うことができます。 インターネットで今の状況を脱出するにはどうすればいいのかを検索しましょう。 そうすると、あなたを守ってくれるサイトやホームぺージが必ず見つかります。 そこを頼りましょう。 ただし、一つだけ気を付けてください。 インターネットには危険な情報もたくさんあります。 あなたのような弱っている人間を捕まえて、犯罪に巻き込もうとする人間もたくさんいます。 何が正しい情報なのかをしっかりと見極めてください。 あなたの住んでいる町のホームページなら安心かと思います。 最後に一つ。 あなたの人生はまだまだこれからです。 あなたが人生を終えるころ、おばあちゃんになったころには、今周りにいる頼りない大人や嫌いな友達は、おそらくあなたの周りにはいません。 辛いのは今だけです。 未来を幸せにするための努力を頑張ってください。応援しています。

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高校2年生です 私も貴方様と同じような感じで小学校1年生の時から理由なくいじめられていました。 小学校中学校地獄のようでした 高校でいじめっ子と離れて楽しく学校へ行けると思う時もありましたが、やはり不安で楽しそうな姿は想像できません。 そして高校へ行っても楽しく学校へ行くことは出来ませんでした。 今では少し慣れてきて中学の頃や高校1年の頃のように吐き気腹痛頭痛などストレスからの症状に悩まされながら投稿することはなくなりましたが、決して楽しくはありません。 既に学校自体が嫌悪の対象でいじめる人がいるいないに関わらず、嫌でしかたないからだと思っています。 今でもしんどいですが、適度に息抜きをすることで何とか通い続けています。 学校を1日休んだり、遅刻したり、早退したり、自分がどうしてもしんどいと思ったら留年したり進学に響かない程度に休んでいます。 貴方様もそうしてみてはいかがでしょう? それで楽しくなるかはわかりません。 でも通いやすくなることでしょう。 人生やめたいほどに疲れて学校が嫌なら嫌なことを遠ざけて、休むしか方法はないと考えています。 必ず行かなければならないという義務感からも解放され休んでもいいと思う事で気持ちも楽に通えます。 学校を休んで親に怒られるなら黙って休めばいいんです。 当たり前ですが、学校と貴方様の命では命の方が大切です 人生をやめたいと思いながら通う必要なんてありません。 適度に休んで気が楽に学校に行けるようになることを願っています。 (私は不登校になることを勧めているわけではありません。休みすぎたことにより、勉強に遅れて受験失敗、進路の幅が狭まった、高校に上がってからは単位を落とした、留年した、などに関しては責任取れません。あくまでも適度に休むことをおすすめしています。黙って学校を休んだ事がバレて親や学校側、友人からの信頼を損ねたなどに関しても自己責任でお願いします。)

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なぜ苦労してるって、当たり前なんですよ。だって「主体性を大切にしたい」と言う前に、そもそも子どもの主体性が育っていないんですから。 そんなことを言うなら、その前に親は世間に負けないような別の強烈な価値観に子どもを晒(さら)すべきだったんです。自分だけきれいでいようとせずに、自身のぶざまな生き方を通して、子どもを徹底的に感化すべきだったんです。 それなしに、子どもが嫌がることを徹底的に避けることで偶然的な可能性を奪うなんて、主体性が曖昧なまま育つにきまっているじゃないですか。そんなわけで、中学に入る頃になると、自分がどっちに進めばいいか皆目(かいもく)見当がつかないままに、有り余るエネルギーの行き場をなくして立ち尽(つ)くしている子が、いまたくさんいるのです。 https://www.webchikuma.jp/articles/-/2683?page=2 https://toyokeizai.net/articles/-/479430?page=2 大事な本質 https://www.obunsha.co.jp/pr/gakkou/ https://books.google.co.jp/books/about/%E5%85%B7%E4%BD%93%E3%81%A8%E6%8A%BD%E8%B1%A1.html?id=Ape3CgAAQBAJ&printsec=frontcover&source=kp_read_button&hl=ja&newbks=1&newbks_redir=1&redir_esc=y 学校からいじめをなくすための対策会議にいじめられた生徒の意見を取り入れなかったり、女性活躍推進のための会議に女性を入れなかったりといったことと同じ図式だ。 <日本が好きで日本に住んでいる外国人が、実は共通して経験している「小さな生きづらさ」の積み重ねと悲しい思い> 外国人や外国暮らしが長かった日本人が日本の生活で感じる違和感、生きにくさ、制度の問題点や行政の対応のまずさは、日本でしか暮らしたことのない日本人には理解できないところがある。 第1に,言語は「コミュニケーション手段」であり,多くの言語を身につければそれだけコミュニケーションの幅が広がることがあげられます。とくに現在「英語」が高校・大学受験手段としてそのコミュニケーションツールとしての性質を形骸化させつつあるなかで,第二外国語に挑戦することは言語のコミュニケーション性を再認識させてくれます。第2に,英語・日本語のほかにもうひとつ外国語を習得することで英語や日本語の「相対化」が可能であることがあります。相対化は自国文化・言語の理解に欠かせないものです。英語の学習でこれはかなり達成されたとはいえ,さらにもう一つ学ぶことで今度は英語の相対化も可能になります。第3に,言語を学ぶことは「文化」を学ぶことでもあるということです。言語と文化は密接につながっており,言語習得はその国の文化の理解につながります。国際化社会の今日,異文化理解は我々に求められる大きなファクターとなりつつあります。そのような情勢の中,第二外国語を習得することは意義あることなのです。 自己意識 自己意識とは、他者の観点から考える意識である。 そこには大きく「私の中の私」の意識と、社会的意識とがあり、 その意味では、自己意識こそが真の意識であり、 「自己意識に至ると同時に、真理の故郷に」(109ページ)入ることになる。 「B 自己意識」は、「自己意識自体」、「自己意識の自立性と非自立性」、 「自己意識の自由」の3つに分かれる。 「自己意識自体」とは、「私の中の私」の意識であり、 私とは何かを考える意識である。 自己意識は、私が生命体であり、個と類の統一体であることに気付く。 つまり私は個人であると同時に人類の一員であって、 他者があっての自分であり、社会的存在であることに気付く。 「一人はみんなのために、みんなはひとりのために」との精神こそ、 自己意識の真理である。 しかし自己意識の最初の形態は「自己意識の自立性と非自立性」として現れる。 つまり「主と僕」(「主人と奴隷」)の対立と闘争である。 主人と奴隷とは、奴隷の労働を媒介として結合しているが、 この労働こそが主人と奴隷の関係を逆転させる契機となる。 ヘーゲルが労働を人間の本質としてとらえ、 労働を通じて人間疎外が回復するとしているのは、偉大な功績である。 「自己意識の自由」とは、人間疎外からの現実的回復ではなく、 精神的回復を求めようとする内面の自由な意識であり、 ストア主義、懐疑論、不幸な意識の3つの形態がある。 ストア主義とは、現実から逃避し、 もっぱら「真と善」などの抽象的論議にふける意識であり、 懐疑論とは、すべては疑わしいとして、世界のすべてを否定する意識である。 これに対して不幸な意識とは、中世のキリスト教哲学のことであり、 自己意識は絶対者である神と一体となることで救済されるとする意識である。 しかし、どこまで行っても自己意識は現実の苦しみに引き戻され、 神と一体にはなりえない不幸な意識に止まる。 最後に類としての自己意識と脳科学との関係について一言。 ヘーゲルが「自己意識は、他の自己意識においてのみ、その満足をうる」 (114ページ)としているのは、脳科学からしても正しい。 ヒトには生まれつきヒトとの関わりを求めようとする「関係欲求」が 遺伝的に備わっている。 ヘーゲルが自己意識の真理を 「一人はみんなのために、みんなはひとりのために」としたのは、 ヒトの関係欲求からしても正しい。 言語は人間の心をつくり出す 重要なことは、ニューロンのネットワークの活動によって感覚、知覚、悟性、理性が生じ、これらの意識の諸形態の統一により、一体性をもった精神(心)が生じることです。しかし、反映的機能としての感覚、知覚(記憶)と、創造的機能としての悟性、理性とは、明確に区別しなければなりません。というのも、感覚、知覚は動物が生きていくための機能ですから、あらゆる脊椎動物がもっているのに対し、悟性、理性などの意識は、ヒトだけがもつ意識であり、それはヒトの脳が言語機能をもつことによってはじめて生じる意識だからです。いわば、「感じる力」「知る力」としての感覚、知覚は、言語を必要としませんが、「考える力」「創造する力」としての悟性、理性は脳の言語機能と結合することによってのみ生じる意識なのです。 人間はコミュニケーションの手段として言語(言葉と文字)を使用するのに対し、他の動物はもっぱら音声を手段としています。ヒトの言葉と動物の音声は、いずれも声帯を利用して音を出し、その変化をつうじてコミュニケーションをするという点では共通していますが、本質的には全く異なるものといわなければなりません。 すなわち動物のコミュニケーションは、「いま、ここ」というリアルタイムに限定して「このもの」という有限なものをとらえ、それを「いま・ここ」にいる他の仲間に音声をつうじて伝えうるのみであり、まさにヘーゲルのいう「感覚的確信」にすぎないのです。 これに対して人間の言語は、時・空の制限を受けることなく、また対象に限定されることもなく、自由に無限の情報を伝えうるものとなっています。そこから人間は、一つにはすべての動物のもつ現実的物理的な環境世界と、もう一つは言語によってつくり出された「象徴的世界」(同八八ページ)としての人間社会という、二つの独立した世界をもつことになり、「それらを組みあわせることによって、膨大な数の結合を形成し、無限の意味をつくりだす」(同)ことができるのです。 こうして、言語によって、第二講で学んだ「生物的な一次感情と社会的な二次感情」(同一六〇ページ)が生みだされることになり、ひいてはそこから自由意志をもった理性的存在としての人間が登場することになるのです。したがって「人間の言語機能は、それを獲得して運用するための心を生みだす臓器/器官としての実在である、人間の脳神経系に生まれながらにそなわったメカニズムのはたらきによるもの」(同九〇ページ)なのです。 いわば人間は、脳の言語機能によって人間らしい心をもつことになり、言語によって理性的存在としての人間になるということができます。その意味でヘーゲルが、真理という人間らしい認識は、言語によって表現されることではじめて可能となるとしたのは、当時の理論水準を大きく上回る高い見識を示したものとして評価されなければならないでしょう。