鎌倉幕府の北条氏は、将軍に、ならなかったのですか?それとも、なれなかったのですか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:1/19 16:04

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身分的には難しいですが、当時の北条義時らがどうしてもと望めば可能だったかもしれません。 ただ、そこまでする意味もあまりなかったのでしょう。 名実ともに完全にトップに立つと、鎌倉幕府の黎明期だと暗殺される恐れも増しますしね。 義時がトップを握って以降は、それこそ北条氏が将軍になるメリットはそんなになかったでしょう。 実権を掌握しているわけですからね。 それなら象徴となる将軍を置いておいた方がやりやすいのでしょう。

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将軍になる必要はなかったので、なろうと思った事はおそらくなかった。仮になろうとしたら、なれたかと言われたら、一時的になれた可能性はある。鎌倉時代の征夷大将軍はあくまで地方遠征のための軍事司令官職にすぎず、そんな家格が要求されるようなたいした職ではないので。承久の乱以降の鎌倉幕府の力が朝廷に優越してる状況下なら、その程度の無理は押し通せる可能性はある。 ただし、鎌倉幕府という高貴な身分の人を名目上のトップに置くことで、政権を安定させるというシステムを考えると、それは自滅行為に等しい。

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征夷大将軍とか右大将 右近衛の大将とかの職は 重職なので 京の朝廷から かなりの 官位をもらわないと なれないとは思いますが 伊豆北条氏は 桓武平氏なのかどうなのかも よくわからないのであれば 京の朝廷に対して 公卿の地位まで 一族がのし上がるくらいの 家格などにまで ならなければ なかなか 素姓がはっきりしない 一族では 時の 権力者 天皇 帝 上皇 法皇 摂関家などから 承認を得て 将軍の職を得るのは 難しいと思います 例えば 平治の乱の首謀者の一人 藤原信頼氏は 藤原北家水無瀬流ですが 後白河上皇の寵愛を受け 近衛の大将の職を望みましたが 信西に却下されました 平家の平重盛氏や宗盛氏なども 父親が太政大臣になり 兄妹などが 天皇に嫁いだり 摂関家の正室になったりしていました 関ヶ原の戦いで 西軍から東軍へ裏切ったことで有名な 小早川秀秋氏は 豊臣秀吉氏の正室 寧々さんの親戚ですが 小早川氏自体は もともとは 桓武平氏平良文流の土肥氏の流れで 西軍の石田三成氏から 関白職を打診されたりしていたそうですが 豊臣秀吉氏の親戚で 桓武平氏の流れなので 家柄的には ありえないこともないと思いますが 結局 東軍についたので その後 跡継ぎを残さず 亡くなってしまったので 小早川氏は 断絶してしまいました 北条氏は 家格などを どのように名乗っていたのかは しりませんが 徳川家康氏のように 家系を 作らないと 無理のような気がします

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なる事は可能だったかもしれませんが、鎌倉幕府は有力な御家人の連合政権であり、北条氏がその筆頭であったとしても、同格だったのが「主君」となれば他の御家人の反発は避けられません。 このため傀儡の宮将軍を立てて、それを補佐するという形で権力を握りました。

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なれなかったです。簡単に言うと鎌倉殿は高位な身分の出身で田舎武士の北条氏がどんなに権力を握ろうとも格式が違いすぎました。御家人は主君の鎌倉殿が自分の財産である土地を保証してくれるから奉公するのであって、同輩の北条氏の保証では安心できないんですね。高貴な身分の御人の保証だから安心して奉公できるわけです。

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