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韓国のWikipediaを翻訳しました。 【新羅の三国統一】 新羅は6世紀法興王の時代に律令と官制を頒布し、異次頓(イ・チャドン)の殉教を経て仏教を国教にした以降、内部の結束をかためながら統治体制を整備することで国力を強化した。 法興王の跡を継いだ真興王は国家の発展のための人材を養成するために花郎(ファラン)を国家的な組織に改編し、仏教の教団を整備して民の思想的な統合を図った。 新羅の真興王は554年の管山城(現在の沃川)戦闘を勝利に導いて百済の聖王を戦死させることで漢江流域の覇権を掌握し、伽耶連盟の中で最後まで生き残った大伽耶を完全に征服して洛東江・咸鏡南道・黄海道まで領土を拡張した。 真興王が執権した以降、新羅は高句麗・百済との抗争を主導するほど強国になった。 高句麗が唐の侵略を防御していた時期には金春秋(キム・チュンチュ→武烈王)が伽耶系勢力の金庾信(キム・ユシン)とともに新興勢力として執権体制を強化しながら国家内部の結束をかためた。 【伽耶の滅亡】 532年、新羅は伽耶連盟の中心国である金官伽耶を滅亡させ、金海と鎮海地域を服属させた。 562年には最終的に大伽耶を征服し、洛東江一帯を完全に掌握した。 服属させた地域から反発が高まると、新羅は金官伽耶の最後の国王・仇衡王の子孫を貴族に編入することで伽耶の反発を抑えて思想的な統合に成功した。 【百済の滅亡】 高句麗が隋・唐と戦争をする間、百済の義慈王は百済の軍隊を総動員して新羅の大耶城(現在の陜川)など40城を陥落させた。 新羅の金春秋は高句麗の援兵を要請する外交を敢行しようとしたが、高句麗が援兵の代価として漢江流域の返還を要求して成果はなかた。 新羅は唐と同盟を結んで百済を征服し、高句麗を挟み撃ちする戦略を立てた。 唐の高宗は蘇定方に命令を下して百済を攻撃した。 新羅は金庾信に命令を下して百済を攻撃して炭峴(現在の錦山)まで進んで行った。 当時、百済の義慈王は驕慢で享楽にふけていた。 朝廷の奸臣は私利私欲だけを図っていて、成忠(ソンチュン)・興水(フンス)などの忠臣は処刑された。 百済は度重なる戦争の中で民心が離反し、内紛によって存亡の危機に立たされた。 黄山伐(現在の論山)戦闘で忠常(チュンサン)と5千人の決死隊は大敗し、泗沘城(現在の扶餘)が陥落することで百済は660年に滅亡した。 百済が滅亡した後、各地で百済復興運動が起こった。 王族出身の福信と僧侶の道琛は周留城(位置不明)に、黒歯常之などの人は任存城(現在の礼山)拠って軍事力を集めて200城を回復した。 彼らは倭から帰ってきた豊王を国王に推戴し、泗沘城と熊津城(現在の公州)などを包囲・攻撃した。 しかし新羅と唐の連合軍の反撃と内部分裂によって周留城が陥落し、敗北を重ねて結局4年間の百済復興運動は終末を告げた。 唐は百済の旧領土に熊津都督府を設置したが、677年に新羅によって放逐された。 【高句麗の滅亡】 百済を征服した新羅の武烈王は唐と連合して高句麗を攻撃した。 高句麗の淵蓋蘇文は攻撃をかろうじて支えたが、度重なる戦争によって国力が弱くなった。 さらに淵蓋蘇文の独裁は民心を悪化させた。 淵蓋蘇文が死んだ後、彼の弟と息子を中心に貴族の間で権力闘争が起こって国力は衰退した。 唐はその隙を狙って高句麗を攻撃し、新羅も南から攻撃して高句麗は668年滅亡した。 剣牟岑などの人が王族の安勝(アン・スン)を推戴して4年間復興運動を続けたが、失敗した。 唐は高句麗の旧領土に安東都護府を設置したが、676年に新羅によって放逐された。
質問者からのお礼コメント
ありがとうございました。
お礼日時:1/23 21:15