ID非公開さん
2022/1/24 15:58
4回答
いわゆる源平合戦の源頼朝と義経について質問です。 平家滅亡後、義経は頼朝と決裂し、頼朝追討の院宣をもらってもロクに兵が集まらなかったんですよね。 これは分かるんですが…
いわゆる源平合戦の源頼朝と義経について質問です。 平家滅亡後、義経は頼朝と決裂し、頼朝追討の院宣をもらってもロクに兵が集まらなかったんですよね。 これは分かるんですが… 頼朝は頼朝でこの院宣に対抗すべく、鎌倉で御家人に上洛の収集をかけたところ、その時鎌倉に集まっていた2,098人の武士のうち、命に応じた者は58人しかいなかったと聞きました。 さすがにこれが頼朝への反意ではないと思うので、御家人たちの心理として「嫌とは言わないけど、義経と戦うのはリスキーだしちょっと様子見たい」みたいな感じだったのでしょうか? それとも、よく歴史好きの人が「義経は御家人に嫌われていた」と言いますが、頼朝がおっかないから義経に味方できないだけで、本音では「そこまでしなくても…」と思っていたのでしょうか? 推測でもいいので教えてください。
ベストアンサー
義経の反逆を知った頼朝が上洛を決定し、ちょうど、勝長寿院落慶供養により参集していた御家人に動員令をかけた時、当日24日に参集した御家人が2096人で、直ちに出陣すると応えた御家人が56人ということは『吾妻鏡』の記述するところです。56人に御家人ナンバースリーの下野の豪族小山朝政・朝光兄弟が入っており、他の御家人が競争からに続いたことは確実です。頼朝は4日後の29日に出陣していますから、準備期間を考えれば遅くはありません。決して、御家人達が逡巡していたわけではありません。
1人がナイス!しています